掠文庫
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当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではなくなってしまう。 しかし、はたして、爪を抜かれた猫はどうなるのだろう。眼を抜かれても、髭 を抜かれても猫は生きているにちがいない。しかし、柔らかいあしのうらの、 鞘のなかに隠された、かぎのように曲った、あいくちのように鋭い爪! これ がこの動物の活力であり、智慧であり、精霊であり、一切であることを私は信 じて疑わないのである。  ある日私は奇妙な夢を見た。  X――という女の人の私室である。この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、 私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、い つも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも 微かな香料の匂いがしている。  夢のなかの彼女は、鏡の前で化粧していた。私は新聞かなにかを見ながら、 ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼 女は、なんと! 猫の手で顔へおしろいを塗っているのである。私はゾッとし た。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と 同じように使っているんだということがわかった。しかしあまりそれが不思議 なので、私はうしろから尋ねずにはいられなかった。 「それなんです? 顔をコスっているもの?」 「これ?」  夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へほうって寄来した。 取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。 「いったい、これ、どうしたの!」  訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやら その猫のものらしいことを、閃光のように了解した。 「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」  彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流行るとい うので、ミュルで作って見たのだというのである。あなたが作ったのかと、内 心私は彼女の残酷さに舌を巻きながら尋ねて見ると、それは大学の医科の小使 が作ってくれたというのである。私は医科の小使というものが、解剖のあとの 死体の首を土に埋めて置いてどくろを作り、学生と秘密の取引をするというこ とを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたって いいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無神経さや 残酷さを、今更のように憎み出した。しかしそれが外国で流行っているという ことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雑誌か新聞かで読んでいた ような気がした。――  猫の手の化粧道具! 私は猫の前足を引っ張って来て、いつも独り笑いをし ながら、その毛並を撫でてやる。彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短いじ ゅうたんのような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうな のである。しかし私にはそれが何の役に立とう? 私はゴロッと仰向きに寝転 んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいそのあし のうらを、一つずつ私のまぶたにあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私 の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。  仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立 てるのだから。
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