掠文庫
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 その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。夫は何時もの薄笑ひを浮べ ながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。が、彼女には 何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。「どれ、寝 るかな。」――二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の 前を離れた。信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書い てゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来る のだと思ふと。」と云つた。「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」―― 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。  照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。当日は午少し前から、ちらちら 白い物が落ち始めた。信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の 魚の匂が、口について離れなかつた。 「東京も雪が降つてゐるかしら。」― ―こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐ た。雪が愈烈しくなつた。が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。 ……      三  信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫を一しよに、久しぶりで東京の土を踏 んだ。が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所 へ、来※々顔を出した時の外は、殆一日も彼 女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。彼女はそこで妹夫婦の郊外の新 居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つ た。  彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。しかし隣近所には、いづれも 借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。のき打ちの門、要もちの垣、 それから竿に干した洗濯物、――すべてがどの家も変りはなかつた。この平凡 な住居の容子は、多少信子を失望させた。  が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方で あつた。俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」と快活 な声を挙げた。彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。 「暫らく。」「さあ、御上り。生憎僕一人だが。」「照子は? 留守?」「使 に行つた。女中も。」――信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた 上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。  俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。座敷の中には何処を見ても、本 ばかり乱雑に積んであつた。殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机 のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。 その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新 しい一面の琴だけであつた。信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離 さなかつた。 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」―― 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。「どうです、 大阪の御生活は?」「俊さんこそ如何? 幸福?」――信子も亦二言三言話す 内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。文通さへ碌 にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなか つた。  彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。俊吉の小 説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話して も、尽きない位沢山あつた。が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの 問題には触れなかつた。それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを 強くさせた。  時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。その度に彼女は微笑した 儘、眼を火鉢の灰に落した。其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待 つ心もちがあつた。すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時 もその心もちを打ち破つた。彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくな つた。が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つて ゐる気色も見えなかつた。  その内に照子が帰つて来た。彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばか りに嬉しがつた。信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。二人 は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
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