掠文庫
index
[4]
そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言 葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、あ る戦慄を覚えました。  それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の人々 一斉の黙祷、この時のしばしの間のシンとした光景――私はまるで別の世界を 見せられた気がしたのであります。  帰りは風雪になっていました。二人は毛布の中で抱き合わんばかりにして、 サクサクと積もる雪を踏みながら、私はほとんど夢ごこちになって寒さも忘れ、 木村とはろくろく口もきかずに帰りました。帰ってどうしたか、聖書でも読ん だか、賛美歌でも歌ったか、みな忘れてしまいました。ただ以上の事だけがは っきりと頭に残っているのです。  木村はその後二月ばかりすると故郷へ帰らなければならぬ事になり、帰りま した。  そのわけはなんであろうか知りませんが、たぶん学資のことだろうと私は覚 えています。そして私には木村が、たといあの時、故郷に帰らないでも、早晩、 どこにか隠れてしまって、都会の人として人中に顔を出す人でないと思われま す。木村が好んで出さないのでもない、ただ彼自身の成り行きが、そうなるよ うに私には思われます。樋口も同じ事で、木村もついに「あの時分」の人とな ってしまいました。  先夜鷹見の宅で、樋口の事を話した時、鷹見が突然、  「樋口は何を勉強していたのかね」と二人に問いました。記憶のいい上田も 小首を傾けて、  「そうサ、何を読んでいたかしらん、まさかまるきり遊んでもいなかったろ うが」と考えていましたが、  「机に向いていた事はよく見たが、何を専門にやっていたか、どうも思いつ かれぬ、窪田君、覚えているかい」と問われて、私も樋口とは半年以上も同宿 して懇意にしていたにかかわらず、さて思い返してみて樋口が何をまじめに勉 強していたか、ついに思い出すことができませんでした。  そこで木村のことを思うにつけて、やはり同じ事であります。木村は常に机 に向いていました、そして聖書を読んでいたことだけは今でも思い出しますが、 そのほかのことは記憶にないのです。  そう思うと樋口も木村もどこか似ている性質があるようにも思われますが、 それは性質が似ているのか、同じ似たそのころの青年の気風に染んでいたのか、 しかと私には判断がつきませんけれども、この二人はとにかくある類似した色 を持っていることは確かです。  そう言いますと、あの時分は私も朝早くから起きて寝るまで、学校の課業の ほかに、やたらむしょうに読書したものです。欧州の政治史も読めば、スぺン サーも読む、哲学書も読む、伝記も読む、一時間三十ぺージの割合で、日に十 時間、三百ぺージ読んでまだ読書の速力がおそいと思ったことすらありました。 そしてただいろんな事を止め度もなく考えて、思いにふけったものです。  そうすると、私もただ乱読したというだけで、樋口や木村と同じように夢の 世界の人であったかも知れません。そうです、私ばかりではありません。あの 時分は、だれもみんなやたらに乱読したものです。                              (おしまい)
index