掠文庫
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したようにぼんやりと見つめている青木を見つけて、近藤氏の厚意を話した時 ――大なる興奮と感激とをもって、話した時、青木はその起きてから間もない と見え、極度に蒼白い顔の筋肉を、ぴくりともさせずに、ただ一言、「そうか い!」と、いったばかりであった。雄吉は、青木の冷静な、ほとんど無関心な 態度を、ある種の驚異をもって見た。自分の身の上に湧いてくる危難を、もの の数ともせずに、雄吉の親切などを、眼中においてない青木の態度を、雄吉は 怒るよりも、むしろ呆気に取られて見つめるばかりであった。 「じゃまあ! 近藤氏の世話にでもなるか。学校なんかどうだっていいのだが、 好き好んでよすにも当らないからな」と、いつものように、傲岸にいい放ちな がら、にやりと青木に特有な、皮肉な、人を頭から嘲っているような、苦笑を もらした。雄吉は、自分の全心を投じた親切を、青木のために、こんなに手ひ どく扱われながら、それでも青木が、とうとう自分の親切を受け入れてくれて、 自分の崇敬措く能わざる青年哲学者の危急を救い得たことを、無上の光栄のよ うに欣んでいた。  青木が、近藤家に寄寓して、雄吉と同室に起臥することになったのは、それ から間もなくのことであった。今までもそうであったが、こう二人の生活が、 ことごとに交渉することになってからは、雄吉の生活は、ことごとく青木の意 志の支配を受けていた。近藤家から命ぜられるすべての仕事は、ことごとく雄 吉の負担であった。それと反対に、近藤家から与えられる恩典の大部分は青木 が独占した。が、雄吉はそうした自分の従属的な生活を、少しも後悔してはい なかった。思索家、青年哲学者としての青木に対する彼の崇拝は、少しの幻滅 をも感じなかったばかりでなく、青木との交情が進むに従って、ますます拡大 され、かつ深められていた。ことに、青木が三年になって以来、校友会の雑誌 に続けざまに発表した数篇の哲学的論文は、彼の青木に対する尊敬を極度にま で煽り立てねば止まないものであった。一つは「ベルグソンの哲学の欠陥」と いい、一つは「実在としての神」というのであった。その二つの論文が学校中 に起した感動はかなり素晴らしいものであった。天才青木! それは、雄吉の クラスだけでの合言葉ではなくなって、ほとんど学校中全体にさえ承認を求め るようにまで進んでいった。雄吉は、青木の天才が、こうした輝かしい承認を 受け始めたことを、どんなに驚喜したか、わからなかった。こうして、多くの 人々から認められるにつけて、青木の自信と傲慢とは、正比例して増進してい った。たしか彼が、近藤家へ移ってからのことであった。その頃、京都大学の 哲学教授で、名声嘖々として、思想界の注目をひいていた北田博士が珍しく上 京して、大学の講堂で講演をした。それをききに行って帰ってきた青木は、雄 吉の顔を見ると、いつものように、吐き出すような調子で、「北田博士から、 あの哲学者らしい顔付を除けば、跡には何も残りゃしないぜ」と、いったまま、 口をつぐんでしまった。雄吉は、北田博士に対しても、十分な尊敬を持ってい たが、彼の崇拝する青木が天下の大学者たる北田博士を一言の下に片づけるそ の大胆さを、痛快に思わずにはおられなかった。  雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青 木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということか ら、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり享 楽者であった青木は、なんといっても不自由な寄食的生活と、月々給与せられ る五円という小額な小遣いとのために、その生活をかなり虐げられているらし かった。彼は、見る見るうちに蔵書――高等学校生としては極度に豊富な蔵書 を、売り払ってしまった。彼には、他人の家に宿食してからも、その享楽的な 生活を更改することが苦痛らしく見えた。彼は蔵書を売り払った金で、やっぱ り本郷あたりのカフェで、香りと味の強烈な洋酒の杯を享楽していた。そのう ちに、青木の身辺から、消滅するものはその蔵書ばかりではなくなった。いつ の間にか、彼の懐中時計は彼の机上から、影を隠していた。  そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が 近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそう した放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をも って彼を見守っていた。  三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、 学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の 目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。  それは、金銭上の取引きなどには疎い雄吉にとっては、かなり珍しい小切手 であった。しかも、雄吉ら学生にとってはかなりの大金だといってもいい百円
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