掠文庫
index
[2]
たいような気が起る。真実に苦しんで見たものでなければ、苦しんで居る人の 心地は解らないからね。そこだ。もし君が僕の言うことを聞く気があるなら、 一つ働いて通る量見になりたまえ。何か君は出来ることがあるだろう――まあ、 歌を唄うとか、御経を唱げるとか、または尺八を吹くとかサ。」 「どうも是という芸は御座いませんが、尺八ならすこしひねくったことも――」 と、男は寂しそうに笑い乍ら答えた。 「むむ、尺八が吹けるね。それ見給え、そういう芸があるなら売るが可じゃな いか。売るべし。売るべし。無くてさえ売ろうという今の世の中に、有っても 隠して持ってるなんて、そんな君のような人があるものか。では斯うするさ― ―僕が今、君に尺八を買うだけの金を上げるから粗末な竹でも何でもいい、一 本手に入れて、それを吹いて、それから旅をする、ということにしたまえ―― 兎に角これだけあったら譲って呉れるだろう――それ十銭上げる。」  斯う言って、そこに出した銀貨を男の手に握らせた。 「人の一生というものは、君、どうなるか解らない。」と自分は男の顔を熟視 り乍ら言った。「これから将来、君がどんな出世をするかも知れない。僕がま た今日の君のように困らないとも限らない。まあ、君、左様じゃないか。もし 君が壮大な邸宅でも構えるという時代に、僕が困って行くようなことがあった ら、其時は君、宜敷頼みますぜ。」 「へへへへへ。」と男は苦笑いをした。 「いいかね。僕の言ったことを君は守らんければ不可よ。尺八を買わないうち に食って了っては不可よ。」 「はい食べません、食べません――決して、食べません。」  と、男は言葉に力を入れて、堅く堅く誓うように答えた。  やがて男は元気づいて出て行った。施与ということは妙なもので、施された 人も幸福ではあろうが、施した当人の方は尚更心嬉しい。自分は饑えた人を捉 えて、説法を聞かせたとも気付かなかった。十銭呉れてやった上に、助言もし てやった。まあ、二つ恵んでやった。と考えて、自分のしたことを二倍にして 喜んだ。五月――寂しい旅情は僅かに斯ういうことで慰められたのである。  しばらくして、水汲みから帰って来た下女に聞くと、その男は自分の家を出 ると直に一膳めしの看板をかけた飲食店へ入ったという。其時自分は男の言葉 を思出して、「まだ朝飯も食べません。」と、繰返して笑った。定めし男の方 でも自分の言葉を思出して「説法は有難いが、朝飯の方が尚有難い。」とかな んとか独語を言い乍ら、其日の糧にありついたことであろう。 (一九〇六年一月「芸苑」)                              (おしまい)
index