掠文庫
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ものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかん の、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法 外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。 人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思 ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむず かしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだか ら、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断 わって帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにが ししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。 惜しい事をした。しかし九円だって、どうかならない事はない。旅費は足りな くっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出 来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせ ておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出 来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。そ のくらいよく知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。  そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。もう教員 も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。広い 細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。おれがはいったのを見 て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。見世物じゃあるまいし。それか ら申し付けられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。大概は 椅子を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令 を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。まるで宮芝居の真似だ。 十五人目に体操の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じ れったくなった。向うは一度で済む。こっちは同じ所作を十五返繰り返してい る。少しはひとの了見も察してみるがいい。  挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。 文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優し い声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着 ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけに ご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にして いる。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病 気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざ わざ誂らえるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤 にすればいい。それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪るい男が居た。 大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。昔小学校へ行 く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやは り、こんな色つやだった。浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるか と清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり 食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を 見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬いだと思う。この英語の教師もうらな りばかり食ってるに違いない。もっともうらなりとは何の事か今もって知らな い。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らない んだろう。それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。これは逞し い毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。人が叮寧に辞令を見せたら 見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。何 がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこ の時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。漢学の先生はさすがに堅 いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご 励精で、――とのべつに弁じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。画学の教師は全く 芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどち らでげす、え? 東京? そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸 っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心 中に考えた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。し かし際限がないからやめる。  挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業 上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、明後日から課業を始めてくれと 云った。数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。忌々しい、こい つの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに宿ってるか、山 城屋か、うん、今に行って相談する」と云い残して白墨を持って教場へ出て行 った。主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付け
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