掠文庫
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「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」 「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下 宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって云ってたぜ」 「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」 「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだか ら、出ろと云うんだろう。君出てやれ」 「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸りを 云うような所へ周旋する君からしてが不埒だ」 「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どっちかだろう」  山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌いな大きな声を出す。控所に居 た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長 くしてぼんやりしている。おれは、別に恥ずかしい事をした覚えはないんだか ら、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。みんなが驚ろいてる なかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をす るつもりかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目 な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖わかったと見える。そのうち喇叭が鳴 る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。  午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。 会議というものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄って、 たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏めるのだろう。纏 めるというのは黒白の決しかねる事柄について云うべき言葉だ。この場合のよ うな、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。 誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座に校長 が処分してしまえばいいに。随分決断のない事だ。校長ってものが、これなら ば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。  会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒 い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田 の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端に校長が坐って、校長の隣りに 赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけ はいつも席末に謙遜するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師 と漢学の教師の間へはいり込んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だ の顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥かに趣がある。おやじ の葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかってた懸物はこの顔によく似ている。 坊主に聞いてみたら韋駄天と云う怪物だそうだ。今日は怒ってるから、眼をぐ るぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇かされてたまるもんか と、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。 おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あ なたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらい だ。  もう大抵お揃いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つ と頭数を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これ は足りないはずだ。唐茄子のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とは どう云う宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられ ない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいていても、 うらなり先生の様子が心に浮ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をし て湯壺のなかに膨れている。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の 毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事 もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知 ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、 うらなり君に逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらい だ。  このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の 居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも坐わろうかと、 ひそかに目標にして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分 の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のような者を読んでいる。赤シャツ は琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。この男はこれが道楽である。赤シ ャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合っている。 手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いている、護謨の頭でテーブルの上へしきりに 何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただ
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