掠文庫
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変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続 きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなく てはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入しない事に したい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場 所へ行くのはよしたい――たとへば蕎麦屋だの、団子屋だの――と云いかけた らまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅と云って目くばせをしたが山嵐 は取り合わなかった。いい気味だ。  おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団 子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ 到底出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子 の嫌いなものと注文して雇うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を 食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような外に道楽のない ものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学 の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばか り求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすよう になる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底 暮せるものではない。それで釣に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩 や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」  だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが 露西亜の文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛 び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神 的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。 あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてや った。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。 赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だ ったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。  おれは即夜下宿を引き払った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房が何 か不都合でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云っておくれたら改 めますと云う。どうも驚ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ば かり揃ってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分りゃ しない。まるで気狂だ。こんな者を相手に喧嘩をしたって江戸っ子の名折れだ から、車屋をつれて来てさっさと出てきた。  出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参ります と云うから、だまって尾いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来 た。面倒だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、 つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを 目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に叶ったわが宿と云う事にしよう。 とぐるぐる、閑静で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町 へ出てしまった。ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もっと 賑やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬 愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々 の屋敷を控えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違ない。 あの人を尋ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。幸一 度挨拶に来て勝手は知ってるから、捜がしてあるく面倒はない。ここだろうと、 いい加減に見当をつけて、ご免ご免と二返ばかり云うと、奥から五十ぐらいな 年寄が古風な紙燭をつけて、出て来た。おれは若い女も嫌いではないが、年寄 を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、その魂が方々 のお婆さんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっ母さんだろう。 切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと 云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関まで呼び出して 実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生 それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に荻 野と云って老人夫婦ぎりで暮らしているものがある、いつぞや座敷を明けてお いても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋してくれと頼 んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみ ましょうと、親切に連れて行ってくれた。  その夜から荻野の家の下宿人となった。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を 引き払うと、翌日から入れ違いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占 領した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、 お互に乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
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