掠文庫
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ちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天し
た者と見えて、わっと言いながら、尻持をついて、助けてくれと云った。おれ
は食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ
肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だ
が尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こ
ん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔
中黄色になった。
おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるも
のか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはい
ろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴
だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様のような奸物はなぐらな
くっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き
据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちら
ちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと
両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」
と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつ
しむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云っ
たら両人共だまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡
査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもし
ないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と
云って、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始
めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ
行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜
へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思っ
たが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辞職の上東京へ帰り申候
につき左様御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚
めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答
えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心
持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出
たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革
鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、
早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったか
ら、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円
だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今
年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生
だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っち
ゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養
源寺にある。
(明治三十九年四月)
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