掠文庫
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「なにモジモジしてんのよ。コーヒーメーカーを買ってくれるなら、おいしいコーヒーを煎れて上げるって言ってるだけじゃない。買ってくれるのか、嫌なのか、どっちかしかないでしょ」 「しかし、初対面の女のマンションに来いと言われたら、誰だって驚くだろう」 「なるほどね。それなら心配はいらないわよ。私、こう見えても身持ちが堅いからね。絶対させないからさ。ほら、よく言うじゃない、据え膳食わぬは男の恥、とかさ、あれ逆の場合もあると思わない」 「逆の場合?」 「そう、逆の場合。据え膳くっちゃうのは男の恥って、そういう場合もあると思わない?」 「確かに、それもあるなあ。けど、据え膳食うのは男の思いやりって場合もあるんじゃないか」 「まあね、でも、それはブスの場合でしょ。私はスタンダードってとこだからね。だけど、色気がないからなあ。色気のない女でも誘う男って、正真正銘のスケベが多いから気をつけないといけないんだよな」  私は女と話している内に、女の部屋で私と女が二人きりでコーヒーを飲むことに何の違和感も感じなくなっていた。不思議だが、この女の話す言葉が、私の気持ちの中に真っ直ぐに飛び込んできて、理路整然と身体の中に落ちついていくのだった。私たちは他愛もない話をしながら、雑貨をたくさん扱っている百貨店で、三番目に高いコーヒーメーカーを買って、女の部屋へと向かった。  女の部屋は、六階建てのそれほど大きくはないマンションの最上階にあった。メゾンド・ギャラリーという笑ってしまいそうな名前が大きく片仮名書きされた自動ドアを通ると、私は女の後について、エレベーターに乗り六階で降りた。長い廊下は照明が暗く陰気な感じがした。女は、ポケットから部屋の鍵を出すとドアを開けた。 「好きなところに座ってよ」  女は、そう言うとエアコンのリモコンを取り出してスイッチを入れた。 「さっそくコーヒーをいれてみようか」  女の声に促されて、私はコーヒーメーカーの包みを開けた。 「失敗したよ」と私が言うと、女はこちら来て私の手元を見た。 「ペーパーを買い忘れた」 「そうか、ペーパーがいるんだったわね。ペーパーってコンビニで売ってるでしょ」 「売ってると思うけど」 「じゃあ、買ってくるわ」 「俺が行こうか」 「ちょっと説明するのがじゃまくさいところにあるのよ。私が行って来る。自転車で行くからすぐよ」  女は、自転車のキーをドレッサーの上から拾い上げると、すぐ戻るから、と言い残して出ていった。  私は女のいなくなった部屋に一人残され、ぼんやりと部屋を見回した。いろんなものが乱雑に置いてある部屋だった。決して散らかっているわけではないのだが、きれいに整頓されているというのとも違った。部屋の隅に埃がたまっているという乱雑さとは違い、どこか男っぽい乱雑さが感じられるのだった。  私は見ず知らずの女の部屋に一人で留守番をしていることに、おかしさがこみ上げてきた。知らず知らずゆるんだ口元をしながら、私は女の部屋にあるものを手に取り眺めた。テレビの前にはテレビゲームが置いてあった。シングルベッドの脇には、洗濯物が畳んで置いてある。しばらく置きっぱなしになっているのだろう、洗濯物の上には、読みかけの雑誌が重ねてあった。部屋は典型的なワンルームだが、小さなキッチンがあり、そこだけは狭いながらも独立していた。私は台所を見に行った。子どもの頃、母親に「台所を見れば、女はわかる」と聞かされていた私は初めて訪ねた女の部屋で、隙をついて台所を見学することが癖になっていたのだ。  女の部屋のキッチンは、きれいに片づけられていた。シンクの上には、釣り戸棚が作りつけられている。女の身長では背伸びをしなければ開けられないのではないか、と思われる戸棚を私は開けた。そこには、使い込まれたコーヒーメーカーがあった。その横にはペーパーまで置いてある。少し混乱した私が視線を落とすと、シンクの脇に、小さなフォトスタンドが裏返して置いてあった。フォトスタンドを手に取ってみると、あの男と女が一緒に映っている写真が挟み込んであった。日付が焼き込まれていて、二年前の八月になっていた。  私はしばらくの間、戸棚のなかのコーヒーメーカーと写真とを交互に眺めていたのだが、ふと我に返った。そして、急いで戸棚の戸を閉めると、女の部屋を出た。  マンションのエントランスを出るときに、曲がり角から自転車のブレーキの音が聞こえた。私は街路樹の陰に身を隠して、様子を見た。女がコンビニの袋を買い物かごに入れて、戻ってきたのだった。女は私に気付かず、駐輪場の入り口へと向かっていった。私は女の顔が微かに笑っているのを見た。女が駐輪場へ消えると、私は早足で女の部屋からは見えない方向へと歩き出した。  平気で嘘を吐く女は信用できないものだが、何らかの理由があって嘘を吐く女と真っ向から向かい合うほどの度胸はない。我ながら気の小さな男だと思うのだが性分だから仕方がない。私はさらに歩みを早めた。  女と買いに行ったあのコーヒーメーカーは、しっかりと手に持っている。だって、私はまだコーヒーを飲んでいない。 (了)
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