掠文庫
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おとなたちは、鼻音をたてて眠っているので、この光景を知らない。鼠や青大 将が寝床のなかにまではいって行くのであるが、おとなたちは知らない。私は 夜、いつも全く眼をさましている。昼間、みんなの見ている前で、少し眠る。  私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた。  それよりもまだ小さかった頃のこと。麦畑の麦の穂のうねりを見るたびごと に思い出す。私は麦畑の底の二匹の馬を見つめていた。赤い馬と黒い馬。たし かに努めていた。私は力を感じたので、その二匹の馬が私をすぐ身近に放置し てきっぱりと問題外にしている無礼に対し、不満を覚える余裕さえなかった。  もう一匹の赤い馬を見た。あるいは同じ馬であったかも知れぬ。針仕事をし ていたようであった。しばらくしては立ちあがり、はたはたと着物の前をたた くのだ。糸屑を払い落す為であったかも知れぬ。からだをくねらせて私の片頬 へ縫針を突き刺した。「坊や、痛いか。痛いか。」私には痛かった。  私の祖母が死んだのは、こうして様様に指折りかぞえながら計算してみると、 私の生後八カ月目のころのことである。このときの思い出だけは、霞が三角形 の裂け目を作って、そこから白昼の透明な空がだいじな肌を覗かせているよう にそんな案配にはっきりしている。祖母は顔もからだも小さかった。髪のかた ちも小さかった。胡麻粒ほどの桜の花弁を一ぱいに散らした縮緬の着物を着て いた。私は祖母に抱かれ、香料のさわやかな匂いに酔いながら、上空の烏の喧 嘩を眺めていた。祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。こ ろげ落ちながら私は祖母の顔を見つめていた。祖母は下顎をはげしくふるわせ、 二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした。やがてころりと仰向きに寝ころがった。 おおぜいのひとたちは祖母のまわりに駈せ集い、一斉に鈴虫みたいな細い声を 出して泣きはじめた。私は祖母とならんで寝ころがりながら、死人の顔をだま って見ていた。臈たけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波がちりちりと 起り、顔一めんにその皮膚の波がひろがり、みるみる祖母の顔を皺だらけにし てしまった。人は死に、皺はにわかに生き、うごく。うごきつづけた。皺のい のち。それだけの文章。そろそろと堪えがたい悪臭が祖母の懐の奥から這い出 た。  いまもなお私の耳朶をくすぐる祖母の子守歌。「狐の嫁入り、婿さん居ない。」 その余の言葉はなくもがな。(未完)
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