掠文庫
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ひるまのザネリが、新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小 路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。 「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまだそう云ってしまわないう ちに、 「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつける ようにうしろから叫びました。  ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように思い ました。 「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向う のひばの植った家の中へはいっていました。 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのだろう。走 るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云 うのはザネリがばかなからだ。」  ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯や木の 枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明る くネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっく るっとうごいたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載っ て星のようにゆっくり循ったり、また向う側から、銅の人馬がゆっくりこっち へまわって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパ ラガスの葉で飾ってありました。  ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。  それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時 間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめ ぐってあらわれるようになって居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀 河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気で もあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚のついた小 さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろの壁には空じゅ うの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかっていました。 ほんとうにこんなような蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼ くはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っ て居ました。  それから俄かにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をは なれました。そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながらそれでもわざと胸を 張って大きく手を振って町を通って行きました。  空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈は みなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木な どは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見え るのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの 口笛を吹いたり、 「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を 燃したりして、たのしそうに遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、い つかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考え ながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。  ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに 浮んでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のする うすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云い ましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。 「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。 するとしばらくたってから、年老った女の人が、どこか工合が悪いようにそろ そろと出て来て何か用かと口の中で云いました。 「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰いにあがったんです。」 ジョバンニが一生けん命勢よく云いました。 「いま誰もいないでわかりません。あしたにして下さい。」  その人は、赤い眼の下のとこを擦りながら、ジョバンニを見おろして云いま した。 「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」 「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまいそうで した。 「そうですか。ではありがとう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ま した。
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