掠文庫
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水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしま せんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラス よりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこま かな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん 流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立 っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄い ろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺 形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているので した。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほ んとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てん でに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました。 「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。 「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して 窓から前の方を見ながら云いました。 「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。  ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるが える中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまで もと、走って行くのでした。 「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラ が、窓の外を指さして云いました。  線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、す ばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。 「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバ ンニは胸を躍らせて云いました。 「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」  カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、 いっぱいに光って過ぎて行きました。  と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの 花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむ るように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。  七、北十字とプリオシン海岸 「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」  いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、 急きこんで云いました。  ジョバンニは、 (ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙 いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだっ た。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれ ども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カム パネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでし た。 「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニは びっくりして叫びました。 「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いち ばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」 カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。  俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、 金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床 の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く 後光の射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な 眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雪で鋳たと いったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立 っているのでした。 「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえっ て見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒い バイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組 み合せて、そっちに祈っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがり
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