掠文庫
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[墓]
 これは墓である。蕭条たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠 の土塊が存在してゐる。  何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらく は深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅かばかりの物質――人骨 や、歯や、瓦や――が、蟾蜍と一緒に同棲して居る。そこには何もない。何物 の生命も、意識も、名誉も。またその名誉について感じ得るであらう存在もな い。  尚ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ること ができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物 も残りはしない。我我の肉体は解体して、他の物質に変つて行く。思想も、神 経も、感情も、そしてこの自我の意識する本体すらも、空無の中に消えてしま ふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。 我我は死後を考へ、いつも風にやうに哄笑するのみ!  しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができ ないだらう。我我は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤独 に耐へて、ただ後世にまで残さるべき、死後の名誉を考へてゐる。ただそれの みを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意 識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花 環を捧げ、数万の人が自分の名作を讃へるだらう。ああしかし! だれがその 時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後 にも尚ほ且つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならないのだ。  蕭条たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が実在して 居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我我はそれを知らない。これは墓 である! 墓である! (『新文学準備倶楽部』1929年6月号)
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