掠文庫
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[自殺の恐ろしさ]
自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛で
なくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、
高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既
に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛
びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身体が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやう
に閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。
何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明る
く、前途は希望に輝やいて居る。断じて自分は死にたくない。死にたくない。
だがしかし、足は既に窓から離れ、身体は一直線に落下して居る。地下には固
い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
この幻想のおそろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物
も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事実が、実際
に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度
もし生きて口を利いたら、おそらくこの実験を語るであらう。彼等はすべて、
墓場の中で悔恨してゐる幽霊である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさ
へ戦慄する。
(『セルパン』1931年5月号)
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