掠文庫
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[虫]
 或る詰らない何かの言葉が、時としては毛虫のやうに、脳裏の中に意地わる くこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。 或る日の午後、私は町を歩きながら、ふと「鉄筋コンクリート」といふ言葉を 口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわから なかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な 哲理の謎が、神秘に隠されてゐるやうに思はれた。それは夢の中の記憶のやう に、意識の背後にかくされて居り、縹渺として捉へがたく、そのくせすぐ目の 前にも、捉へることができるやうに思はれた。何かの忘れたことを思ひ出す時、 それがつい近くまで来て居ながら、容易に思ひ出せない時のあの焦燥。多くの 人人が、たれも経験するところの、あの苛苛した執念の焦燥が、その時以来憑 きまとつて、絶えず私を苦しくした。家に居る時も、外に居る時も、不断に私 はそれを考へ、この詰らない、解りきつた言葉の背後にひそんでゐる、或る神 秘なイメ−ヂの謎を摸索して居た。その憑き物のやうな言葉は、いつも私の耳 元で囁だよ。木造ではね。」  「やつぱり鉄筋コンクリートかな。」  二人づれの洋服紳士は、たしかに何所かの技師であり、建築のことを話して 居たのだ。だが私には、その他の会話は聞えなかつた。ただその単語だけが耳 に入つた。「鉄筋コンクリート!」  私は跳びあがるやうなショツクを感じた。さうだ。この人たちに聞いてやれ。 彼等は何でも知つてるのだ。機会を逸するな。大胆にやれ。と自分の心をはげ ましながら  「その……ちよいと……失礼ですが……。」  と私は思ひ切つて話しかけた。  「その……鉄筋コンクリート……ですな。エエ……それはですな。それはつ まり、どういふわけですかな。エエそのつまり言葉の意味……といふのはその、 つまり形而上の意味……僕はその、哲学のことを言つてるのですが……。」  私は妙に舌がどもつて、自分の意志を表現することが不可能だつた。自分自 身には解つて居ながら、人に説明することができないのだつた。隣席の紳士は、 吃驚したやうな表情をして、私の顔を正面から見つめて居た。私が何事をしや べつて居るのか、意味が全で解らなかつたのである。それから隣の連を顧み、 気味悪さうに目を見合せ、急にすつかり黙つてしまつた。私はテレかくしにニ ヤニヤ笑つた。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げ るやうにして降りて行つた。  到頭或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同 時に、私はいきなり質問した。  「鉄筋コンクリートつて、君、何のことだ。」  友は呆気にとられながら、私の顔をぼんやり見詰めた。私の顔は岩礁のやう に緊張して居た。  「何だい君。」  と、半ば笑ひながら友が答へた。  「そりや君。中の骨組を鉄筋にして、コンクリート建てにした家のことぢや ないか。それが何うしたつてんだ。一体。」  「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」  と、不平を色に現はして私が言つた。  「それの意味なんだ。僕の聞くはね。つまり、その……。その言葉の意味… …表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗号。寓意。 その秘密。……解るね。つまりその、隠されたパズル。本当の意味なのだ。本 当の意味なのだ。」  この本当の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。  友はすつかり呆気に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顔ばか り視つめて居た。私はまた繰返して、幾度もしつツこく質問した。だが友は何 事も答へなかつた。そして故意に話題を転じ、笑談に紛らさうと努め出した。 私はムキになつて腹が立つた。人がこれほど真面目になつて、熱心に聞いてる 重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知つてるにち がひないのだ。ちやんとその秘密を知つてゐながら、私に教へまいとして、わ ざと薄とぼけて居るにちがひないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか 電車の中で逢つた男も、私の周囲に居る人たちも、だれも皆知つてるのだ。知 つて私に意地わるく教へないのだ。  「ざまあ見やがれ。此奴等!」  私は心の中で友を罵り、それから私の知つてる範囲の、あらゆる人人に対し て敵愾した。何故に人人が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可 解でもあるし、口惜しくもあつた。  だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑 き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、霊感のやうに閃めいた。  「虫だ!」  私は思はず声に叫んだ。虫! 鉄筋コンクリートといふ言葉が、秘密に表象 してゐる謎の意味は、実にその単純なイメーヂに過ぎなかつたのだ。それが何 故に虫であるかは、此所に説明する必要はない。或る人人にとつて、牡蠣の表 象が女の肉体であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのであ る。私は声をあげて明るく笑つた。それから両手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな 形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。 (『文藝』1937年1月号)
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