掠文庫
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[貸家札]
 熱帯地方の砂漠の中で、一疋の獅子が昼寝をして居た。肢体をできるだけ長 く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獣の習性として、胃の中 の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて 居るのだらう。赤道直下の白昼。風もなく音もない。万象の死に絶えた沈黙の 時。  その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、 緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲撃の姿勢をとつた。どこかの遠い地 平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空気が動き、万象の沈黙が破れた。  一人の旅行者――ヘルメツト帽を被り、白い洋服をきた人間が、この光景を 何所かで見て居た。彼は一言の口も利かず、黙つて砂丘の上に生えてる、椰子 の木の方へ歩いて行つた。その椰子の木には、ずつと前から、長い時間の風雨 に曝され、一枚の古い木札が釘づけてあつた。 (貸家アリ。瓦斯、水道付。日当リヨシ。)  ヘルメツトを被つた男は、黙つてその木札をはがし、ポケツトに入れ、すた すたと歩きながら、地平線の方へ消えてしまつた。 (『いのち』1937年10月号、『シナリオ研究』1937年10月号)
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