掠文庫
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[この手に限るよ]
 目が醒めてから考へれば、実に馬鹿馬鹿しくつまらぬことが、夢の中では勿 体らしく、さも重大の真理や発見のやうに思はれるのである。私はかつて夢の 中で、数人の友だちと一緒に、町の或る小綺麗な喫茶店に入つた。そこの給仕 女に一人の悧発さうな顔をした、たいそう愛くるしい少女が居た。どうにかし て、皆はそのメツチエンと懇意になり、自分に手なづけようと焦燥した。そこ で私が、一つのすばらしいことを思ひついた。少女の見て居る前で、私は角砂 糖の一つを壺から出した。それから充分に落着いて、さも勿体らしく、意味あ りげの手付をして、それを紅茶の中へそつと落した。  熱い煮えたつた紅茶の中で、見る見る砂糖は解けて行つた。そして小さな細 かい気泡が、茶碗の表面に浮びあがり、やがて周囲の辺に寄り集つた。その時 私はまた一つの角砂糖を壺から出した。そして前と同じやうに、気取つた勿体 らしい手付をしながら、そつと茶碗へ落し込んだ。(その時私は、いかに自分 の手際が鮮やかで、巴里の伊達者がやる以上に、スマートで上品な挙動に適つ たかを、自分で意識して得意でゐた。)茶碗の底から、再度また気泡が浮び上 つた。そして暫らく、真中にかたまり合つて踊りながら、さつと別れて茶碗の 辺に吸ひついて行つた。それは丁度、よく訓練された団体遊戯が、号令によつ て、行動するやうに見えた。  「どうだ。すばらしいだろう!」  と私が言つた。  「まあ。素敵ね!」  とじつと見て居たその少女が、感嘆おく能はざる調子で言つた。  「これ、本当の芸術だわ。まあ素敵ね。貴方。何て名前の方なの?」  そして私の顔を見詰め、絶対無上の尊敬と愛慕をこめて、その長い睫毛をし ばだたいた。是非また来てくれと懇望した。私にしばしば逢つて、いろいろ話 が聞きたいからとも言つた。  私はすつかり得意になつた。そして我ながら自分の思ひ付に感心した。こん なすばらしいことを、何故にもつと早く考へつかなかつたらうと不思議に思つ た。これさへやれば、どんな女でも造作なく、自分の自由に手なづけることが できるのである。かつて何人も知らなかつた、これ程の大発明を、自分が独創 で考へたといふことほど、得意を感じさせることはなかつた。そこで私は、茫 然としてゐる友人等の方をふり返つて、さも誇らしく、大得意になつて言つた。  「女の子を手なづけるにはね、君。この手に限るんだよ。この手にね。」  そこで夢から醒めた。そして自分のやつたことの馬鹿馬鹿しさを、あまりの 可笑しさに吹き出してしまつた。だが「この手に限るよ。」と言つた自分の言 葉が、いつ迄も耳に残つて忘られなかつた。  「この手に限るよ。」  その夢の中の私の言葉が、今でも時時聞える時、私は可笑しさに転がりなが ら、自分の中の何所かに住んでる、或る「馬鹿者」の正体を考へるのである。 (『いのち』1937年10月号)
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