掠文庫
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中に入って蔵れたとある。維摩が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数
を忘れた。胡桃の裏に潜んで、われを尽大千世界の王とも思わんとはハムレッ
トの述懐と記憶する。粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一世師に問
うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子はしばらく措く。天下は箸
の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきも
のである。
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人
生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈つればかくる。いたずらに
指を屈して白頭に到るものは、いたずらに茫々たる時に身神を限らるるを恨む
に過ぎぬ。日月は欺くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加
うれば二刻と殖えるのみじゃ。蜀川十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか
変ぜん。
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくの
ごとく一夜を過した。彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである。
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性と性格
を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ?
人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時
に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。(三十八年七月二十六日)
(おしまい)
注:
※[※=嘯の「口へん」の代わりに「虫へん」、第4水準 2-87-94、140-3]蛸
《しょうしょう》
入力に使用したちくま文庫の本文表記ではこの記述のとおりの字形であるが、
ちくま文庫の注記では旁にくさかんむりのつく第4水準 2-87-94となっており、
また、他の書籍とも照合の上、第4水準 2-87-94を採用した。
判断の根拠とした参考資料は次のとおり。
「倫敦塔・幻影の盾」岩波文庫、岩波書店
1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第30刷発行
「倫敦塔・幻影の盾」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年7月10日初版発行
1968(昭和43)年9月15日20刷改版発行
1997(平成9)年4月25日69刷発行
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