掠文庫『石川啄木詩集』
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■マカロフ提督追悼の詩 NO.3
(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、 敵将マカロフ提督之を迎撃せむとし、倉皇令を下して其旗艦ペトロパフロスク を港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、 提督も亦艦と運命を共にしぬ。) 嵐よ黙せ、暗打つその翼、 夜の叫びも荒磯の黒潮も、 潮にみなぎる鬼哭の啾々も 暫し唸りを鎮めよ。万軍の 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 今、大水の響に我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて、千古の浪狂ふ、 弦月遠きかなたの旅順口。 ものみな声を潜めて、極冬の 落日の威に無人の大砂漠 劫風絶ゆる不動の滅の如、 鳴りをしづめて、ああ今あめつちに こもる無言の叫びを聞けよかし。 きけよ、――敗者の怨みか、暗濤の 世をくつがへす憤怒か、ああ、あらず、―― 血汐を呑みてむなしく敗艦と 共に没れし旅順の黒※裡、 彼が最後の瞳にかがやける 偉霊のちから鋭どき生の歌。 ああ偉いなる敗者よ、君が名は マカロフなりき。非常の死の波に 最後のちからふるへる人の名は マカロフなりき。胡天の孤英雄。 君を憶へば、身はこれ敵国の 東海遠き日本の一詩人、 敵乍らに、苦しき声あげて 高く叫ぶよ、(鬼神も跪づけ、 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 マカロフが名に暫しは鎮まれよ。) ああ偉いなる敗将、軍神の 選びに入れる露西亜の孤英雄、 無情の風はまことに君が身に まこと無情の翼をひろげき、と。 東亜の空にはびこる暗雲の 乱れそめては、黄海波荒く、 残艦哀れ旅順の水寒き 影もさびしき故国の運命に、 君は起ちにき、み神の名を呼びて―― 亡びの暗の叫びの見かへりや、 我と我が威に輝やく落日の 雲路しばしの勇みを負ふ如く。 壮なるかなや、故国の運命を 担うて勇む胡天の君が意気。 君は立てたり、旅順の狂風に 檣頭高く日を射す提督旗。―― その旗、かなし、波間に捲きこまれ、 見る見る君が故国の運命と、 世界を撫づるちからも海底に 沈むものとは、ああ神、人知らず。 四月十有三目、日は照らず、 空はくもりて、乱雲すさまじく 故天にかへる辺土の朝の海、 (海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、 敵も味方も汝が鋒地に伏せて、 マカロフが名に暫しは跪づけ。) 万雷波に躍りて、大軸を 砕くとひびく刹那に、名にしおふ 黄海の王者、世界の大艦も くづれ傾むく天地の黒※裡、 血汐を浴びて、腕をば拱きて、 無限の憤怒、怒濤のかちどきの 渦巻く海に瞳を凝らしつつ、 大提督は静かに沈みけり。 ああ運命の大海、とこしへの 憤怒の頭擡ぐる死の波よ、 ひと日、旅順にすさみて、千秋の うらみ遺せる秘密の黒潮よ、 ああ汝、かくてこの世の九億劫、 生と希望と意力を呑み去りて 幽暗不知の界に閉ぢこめて、 如何に、如何なる証を『永遠の 生の光』に理示すぞや。 汝が迫害にもろくも沈み行く この世この生、まことに汝が目に 映るが如く値のなきものか。 ああ休んぬかな。歴史の文字は皆 すでに千古の涙にうるほひぬ。 うるほひけりな、今また、マカロフが おほいなる名も我身の熱涙に。―― 彼は沈みぬ、無間の海の底。 偉霊のちからこもれる其胸に 永劫たえぬ悲痛の傷うけて、 その重傷に世界を泣かしめて。 我はた惑ふ、地上の永滅は、 力を仰ぐ有情の涙にぞ、 仰ぐちからに不断の永生の 流転現ずる尊ときひらめきか。 ああよしさらば、我が友マカロフよ、 詩人の涙あつきに、君が名の 叫びにこもる力に、願くは 君が名、我が詩、不滅の信とも なぐさみて、我この世にたたかはむ。 水無月くらき夜半の窓に凭り、 燭にそむきて、静かに君が名を 思へば、我や、音なき狂瀾裡、 したしく君が渦巻く死の波を 制す最後の姿を観るが如、 頭は垂れて、熱涙せきあへず。 君はや逝きぬ。逝きても猶逝かぬ その偉いなる心はとこしへに 偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。 ああ、夜の嵐、荒磯のくろ潮も、 敵も味方もその額地に伏せて 火焔の声をあげてぞ我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて千古の浪狂ふ 弦月遠きかなたの旅順口。
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