掠文庫『石川啄木詩集』
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■眠れる都 NO.4
(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望 甍の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月 照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜 興をえて匆々筆を染めけるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より「二 つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるもの なりき) 鐘鳴りぬ、 いと荘厳に 夜は重し、市の上。 声は皆眠れる都 瞰下せば、すさまじき 野の獅子の死にも似たり。 ゆるぎなき 霧の巨浪、 白う照る月影に 氷りては市を包みぬ。 港なる百船の、 それの如、燈影洩るる。 みおろせば、 眠れる都、 ああこれや、最後の日 近づける血潮の城か。 夜の霧は、墓の如、 ものみなを封じ込めぬ。 百万の つかれし人は 眠るらし、墓の中。 天地を霧は隔てて、 照りわたる月かげは 天の夢地にそそがず。 声もなき ねむれる都、 しじまりの大いなる 声ありて、霧のまにまに ただよひぬ、ひろごりぬ、 黒潮のそのどよみと。 ああ声は 昼のぞめきに けおされしたましひの 打なやむ罪の唸りか。 さては又、ひねもすの たたかひの名残の声か。 我が窓は、 濁れる海を 遶らせる城の如、 遠寄せに怖れまどへる 詩の胸守りつつ、 月光を隈なく入れぬ。
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