掠文庫『石川啄木詩集』
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■角笛 NO.6
みちのくの谷の若人、牧の子は 若葉衣の夜心に、 赤葉の芽ぐみ物燻ゆる五月の丘の 柏木立をたもとほり、 落ちゆく月を背に負ひて、 東白の空のほのめき―― 天の扉の真白き礎ゆ湧く水の いとすがすがし。―― ひたひたと木陰地に寄せて、 足もとの朝草小露明らみぬ。 風はも涼し。 みちのくの牧の若人露ふみて もとほり心角吹けば、 吹き、また吹けば、 渓川の石津瀬はしる水音も あはれ、いのちの小鼓の鳴の遠音と ひびき寄す。 ああ静心なし。 丘のつづきの草の上に 白き光のまろぶかと ふとしも動く物の影。―― 凹みの埓の中に寝て、 心うゑたる暁の夢よりさめし 小羊の群は、静かにひびき来る 角の遠音にあくがれて、 埓こえ、草をふみしだき、直に走りぬ。 暁の声する方の丘の辺に。―― ああ歓びの朝の舞、 新乳の色の衣して、若き羊は 角ふく人の身を繞り、 すずしき風に啼き交し、また小躍りぬ。 あはれ、いのちの高丘に 誰ぞ角吹かば、 我も亦この世の埓をとびこえて、 野ゆき、川ゆき、森をゆき、 かの山越えて、海越えて、 行かましものと、 みちのくの谷の若人、いやさらに 角吹き吹きて、静心なし。
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