掠文庫『石川啄木詩集』
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■辻 NO.8
老いたるも、或は、若きも、 幾十人、男女や、 東より、はたや、西より、 坂の上、坂の下より、 おのがじし、いと急しげに 此処過ぐる。 今わが立つは、 海を見る広き巷の 四の辻。――四の角なる 家は皆いと厳めしし。 銀行と、領事の館、 新聞社、残る一つは、 人の罪嗅ぎて行くなる 黒犬を飼へる警察。 此処過ぐる人は、見よ、皆、 空高き日をも仰がず、 船多き海も眺めず、 ただ、人の作れる路を、 人の住む家を見つつぞ、 人とこそ群れて行くなれ。 白髯の翁も、はたや、 絹傘の若き少女も、 少年も、また、靴鳴らし 煙草吹く海産商も、 丈高き紳士も、孫を 背に負へる痩せし媼も、 酒肥り、いとそりかへる 商人も、物乞ふ児等も、 口笛の若き給仕も、 家持たぬ憂き人人も。 せはしげに過ぐるものかな。 広き辻、人は多けど、 相知れる人や無からむ。 並行けど、はた、相逢へど、 人は皆、そしらぬ身振、 おのがじし、おのが道をぞ 急ぐなれ、おのもおのもに。 心なき林の木木も 相凭りて枝こそ交せ、 年毎に落ちて死ぬなる 木の葉さへ、朝風吹けば、 朝さやぎ、夕風吹けば、 夕語りするなるものを、 人の世は疎らの林、 人の世は人なき砂漠。 ああ、我も、わが行くみちの 今日ひと日、語る伴侶なく、 この辻を、今、かく行くと、 思ひつつ、歩み移せば、 けたたまし戸の音ひびき、 右手なる新聞社より 駆け出でし男幾人、 腰の鈴高く鳴らして 駆け去りぬ、四の角より 四の路おのも、おのもに。 今五月、霽れたるひと日、 日の光曇らず、海に 牙鳴らす浪もなけれど、 急がしき人の国には 何事か起りにけらし。
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