掠文庫『石川啄木詩集』
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■激論 NO.21
われはかの夜の激論を忘るること能はず、 新らしき社会に於ける「権力」の処置に就きて、 はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと 我との間に惹き起されたる激論を、 かの五時間に亙れる激論を。 「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」 かれは遂にかく言ひ放ちき。 その声はさながら咆ゆるごとくなりき。 若しその間に卓子のなかりせば、 かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。 われはその浅黒き、大いなる顔の 男らしき怒りに漲れるを見たり。 五月の夜はすでに一時なりき。 或る一人の立ちて窓を明けたるとき、 Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。 病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、 雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。 さてわれは、また、かの夜の、 われらの会合に常にただ一人の婦人なる Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。 ほつれ毛をかき上ぐるとき、 また、蝋燭の心を截るとき、 そは幾度かわが眼の前に光りたり。 しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。 されど、かの夜のわれらの議論に於いては、 かの女は初めよりわが味方なりき。
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