掠文庫『石川啄木詩集』
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■家 NO.26
今朝も、ふと、目のさめしとき、 わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、 顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、 つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、 夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、 むらさきの煙の味のなつかしさ、 はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る―― はかなくもまたかなしくも。 場所は、鉄道に遠からぬ、 心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。 西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、 高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、 広き階段とバルコンと明るき書斎…… げにさなり、すわり心地のよき椅子も。 この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、 思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを 心のうちに描きつつ、 ランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、 その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、 泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、 そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。 さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。 夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に 音立てて降るこころよさ。 またその隅にひともとの大樹を植ゑて、 白塗の木の腰掛を根に置かむ―― 雨降らぬ日は其処に出て、 かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、 四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の 本の頁を切りかけて、 食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、 また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる 村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく…… はかなくも、またかなしくも、 いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、 月月のくらしのことに疲れゆく、 都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、 はかなくも、またかなしくも なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、 そのかずかずの満たされぬ望みと共に、 はじめより空しきことと知りながら、 なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、 妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、 ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。
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