掠文庫
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「ええ、全くそうなのです。兄さんは、あなたと別れて以来、いい具合にもそんなに不仕合せな目にも会わず、殊にこの頃ではお伽噺の作家として割合に評判もよくなって、殆ど不自由なく気ままな暮しをしていますが、やはり一日だってあなたの身の上を忘れることはなく、何とかして早く見つけ出して一緒になりたいと念じていたのでした。そんなにまで心にかけていながら、兄さんとしたことが、あなたの舞台姿を見て、親身の妹の幼顔を思い出すことが出来なかったばかりでなく、――実に怪しからんことにも、あなたにひどく恋してしまったのです。その恋のためには身も世もなくなるほどの気持でしてね……」 「まあ!……」女優は全くうろたえてしまいました。 「で、ぜひとも結婚しなければ、……命にかけても結婚すると堅く心に誓ったのですが、それほど思い詰めていたにも拘らず、あなたの兄さんと来たら、お話にならない位気の弱い人でしてね、どうしてもその心のたけをば、あなたに会って打あける勇気が出なかったものです。そこで、兄さんのごく親しい友達の一人がえらばれて、代ってあなたのところへそのことの話をつけるために出かけて行くことになりました……」青年は言葉をちょっと途切らして、さて溜息を洩らしました。 「では、そのお友達というのが、あなたでいらっしゃいますの?――でも、あなた、ちっともお困りになることはございませんわ……」  女優は感動しながら、やさしくそういいました。 「いやいや、違います。そうではありません。……困ったことというのは、そのえらばれた友達が、よせばいいのに、といったところでいつかは知れるには相違ないことなのですが、あなたへお話する前に、責任を感じたものとみえて、私立探偵に頼んで、あなたの身元をしらべ、その序に兄さんの方も調べてみてもらったところが、図らずもこの二人は元々一本の幹から出たもので、兄さんはどうやらあなたの真実の兄であるらしいということが判ったのです。――さあ、そうなってみると、その友達は途方に暮れてしまいました。なぜといってもしそんなことをうっかり兄さんに打ち明けようものなら、兄さんは失望のあまり、人生を呪って必ずや我身を亡ぼしてしまうに違いないと思ったからです。いっそ、何もわからずに、知らないまんまで、兄と妹とがやみくもにうまく結婚してしまえば何事もなかったろうが、と今更悔んでも追っつきません。到頭その友達は可哀相なことにも、自責の念に堪えかねて、或る夜のことどこかへ逃亡してそれっきり行方も判らなくなってしまったような始末です。」 「…………」 「けれども、一旦私立探偵がそうと嗅ぎつけた以上、たといその友達が姿をくらましたにせよ、そんなことをすればするだけ、いつまでもその秘密が洩れないで済む道理がありません。――或る晩、倶楽部で酔っぱらいの友達同士が、声高らかにその内しょ[#「しょ」に傍点]話をしゃべっているのを私は――そうです、私は、聞いてしまいました。もちろん私たるものの驚きはたとえるものもありません。一体こんな残酷な運命の悪戯を、果してわれわれはそのまま許容してしまっても差閊えないものであろうかと、私は嘆き、悲しみ、憤りました。だが、いずれにしても、こうした事実はお互のために極めて判然とさせなければならないと考えまして、それ以来あらためて自分の手でいろいろ調査をしてみました。そして到頭、今朝になって、その動かすべからざる調査の結果を知り得たのです……」 「え! なんでございますって※[#疑問符感嘆符、1-8-77] それでは、あなたは、もしや……」女優は感激のあまり頭を抑えて立ち上がりました。「若しや……あなたがそのお兄さんではないのですか?……」 「そう、そう……ですけれども、ああ、それが、それが……」青年はすっかり胸をつまらせて、息苦しそうにどもりました。 「まあ!――」女優は、いきなり青年の肩をしっかりとかき抱いて、幾度も幾度も接吻しながらさて小さい声で囁くようにこういいました。「まあ!――嘘吐き! あんたって人はなんて嘘吐きなの! あたしには、兄さんなんて、厄介な者はたった一人だってありゃしなくってよ!……」  青年は抱かれながら、おろおろ声で弁解しました。 「だって僕は、――僕のいおうとしたのは、その調査の結果が、やっぱり僕とあなたとは兄妹ではなくて、その友達が自分も同じようにあなたをすきだったので、そんな出鱈日を捏造したまでであるということなのです……」 「ばか[#「ばか」に傍点]! まだそんなことをいっているの!」  女優は、そしてまるで楽しいピアノのような音を立てて笑いくずれました。        *  女優とその童話作家だという青年とは、それから間もなく結婚して仕合せに暮しました。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社    1970(昭和45)年9月1日初版発行 初出:「サンデー毎日」    1927(昭和2)年7月 入力:もりみつじゅんじ 校正:田尻幹二 1999年1月27日公開 2003年10月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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