掠文庫
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もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そ
こで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下り
ながら、遥かに目の下を見下しました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、
今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光
っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行
けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。陀多は両手を
蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「し
めた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下
の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行
列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。陀
多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように
大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断れそ
うな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来
ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来
たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりませ
ん。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たち
は何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、
細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。
今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに
違いありません。
そこで陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のも
のだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚
きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら
下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから陀多もたまりま
せん。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、
見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空
の中途に、短く垂れているばかりでございます。
三
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっし
ゃいましたが、やがて陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲
しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ば
かり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な
罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅
間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のよ
うな白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん
中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて
居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
(大正七年四月十六日)
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