掠文庫
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の春、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛ほども疑わな
かったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りま
せん。家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があ
っての業でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。
何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」
話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕
は母のことも気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸
村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が
心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然なこと
はいくら思うても思いきれない。いくら泣いても泣ききれない。しかしながら
また目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いてい
る愍然さを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。僕がめそ
めそして居ったでは、母の苦しみは増すばかりと気がついた。それから一心に
自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。それ
でも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そ
うなっては僕が家に居ないより外はない。
毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校
へ出た。
* * *
民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえて
いる。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく
隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。
(おしまい)
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