掠文庫
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に噛まれはじめた。胡弓を手ばなした瞬間、心の一隅に「しまった」という声 が起った。それが、今は段々大きくなって来た。  クレヨンの包みを受けとると木之助は慌てて、ゴムの長靴を鳴らしながら、 さっきの古物屋の方へひっかえしていった。あいつを手離してなるものか、あ いつは三十年の間私につれそうて来た!  もう胡弓が古帽子や煙草入れなどと一緒に、道からよく見えるところに吊し てあるのが、木之助の眼に入った。まだあってよかったと思った。長い間逢わ なかった親しい者にひょいと出逢ったように懐しい感じがした。  木之助は店にはいって行って、ちょっと躊躇いながら、いった。  「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そ のう、都合の悪いことが出来たもんで」  青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そ こで木之助は財布から三十銭を出して火鉢の横にならべた。  「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもん で、俺のかかあより古くから俺につれそっているんで」  女主人の心を和げようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人 は、  「あんたのかかあがどうしただか、そんなこたあ知らんが、家あ商売してる だね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤の乗っている机に頤杖を ついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃい かんよ」  これはえらい女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いく らでも出すに」といった。  女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、  「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売 だあね」とちょっとおとなしく言った。  「ああ、そいじゃ、そうしてくれ。いやどうも俺の方が悪かった。それじゃ もういくら上げたらいいかな」と木之助はまた財布を出して、半ば開いた。  「そうさな、他の客なら八十銭に売るところだが、お前さんはもとを知っと るから、六十銭にしとこう」  木之助の財布を持っている手が怒りのために震えた。  「そ、そげな、馬鹿なことが。あんまり人の足元を見やがるな。三十銭で取 っといて、三十分とたたねえうちに倍の値で――」  「やだきゃ、やめとけよ」と女主人は遮って素気なくいった。  木之助は財布の中を見るともう十五銭しかなかった。いつもの習慣で家を出 るとき金を持って出なかった。で、さっき由太のクレヨンを買うときは、味噌 屋で貰ったお銭で払ったのだ。十五銭はその残りだった。  火鉢の横にならべた三十銭を一枚一枚拾って財布に入れると、木之助は黙っ て財布を腹の中へ入れた。そして力なく古物屋を出た。  午後の三時頃だった。また空は曇り、町は冷えて来た。足の先の凍えが急に 身に沁みた。木之助は右も左もみず、深くかがみこんで歩いていった。 (おしまい)
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