掠文庫
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りに納まったらしいのです。  「けれども君は、かの後の事はよく知るまい、まもなく君は木村と二人で転 宿してしまったから……なんでも君と木村が去ってしまって一週間もたたない うちだよ、ばあさんたまらなくなって、とうとう樋口をくどいて国郷に帰して しまったのは。ばァさん、泣きの涙かなんかでかあいい男を新橋まで送ったの は、今から思うと滑稽だが、かあいそうだ、それでなくてあの気の抜けたよう な樋口がますますぼんやりして青くなって、鸚鵡のかごといっしょに人車に乗 って、あの薄ぎたない門を出てゆく後ろ姿は、まだ僕の目にちらついている。」 とさすがの上田も感に堪えないふうでした。  それから樋口の話ばかりでなく、木村の事なども話題にのぼり、夜の十一時 ごろまでおもしろく話して別れましたが、私は帰路に木村の事を思い出して、 なつかしくなってたまりませんでした、どうして彼はいるだろう、どうかして 会ってみたいものだ、たれに聞き合わすればあの人の様子や居所がわかるだろ うなどいろいろ考えながら帰りました。  私がおッ母さんの素人下宿を出たのは全く木村に勧められたからです。鸚鵡 の一件で木村は初めてにがにがしい事情を知って、私に、それとなく、言葉少 なに転宿をすすめ、私も同意して、二人で他の下宿に移りました。  木村は細長い顔の、目じりの長く切れた、口の小さな男で、背たけは人並み に高く、やせてひょろりとした上につんつるてんの着物を着ていましたから、 ずいぶんと見すぼらしいふうでしたけれども、私の目にはそれがなんとなくあ りがたくって、聖者のおもかげを見る気がしたのです。朝一度晩一度、彼は必 ず聖書を読みました。そして日曜の朝の礼拝にも、金曜日の夜の祈祷会にも必 ず出席して、日曜の夜の説教まで聞きに行くのでした。  他の下宿に移ってまもなくの事でありました、木村が、今夜、説教を聞きに 行かないかと言います。それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を 赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と言ったのです。  私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、す ぐ同意しました。  雪がちらつく晩でした。  木村の教会は麹町区ですから、一里の道のりは確かにあります。二人は木村 の、色のさめた赤毛布を頭からかぶって、肩と肩を寄り合って出かけました。 おりおり立ち止まっては毛布から雪を払いながら歩みます、私はその以前にも キリスト教の会堂に入ったことがあるかも知れませんが、この夜の事ほどよく 心に残っていることはなく、したがってかの晩初めて会堂に行った気が今でも するのであります。  道々二人はいろいろな話をしたでしょうがよく覚えていません。ただこれだ け頭に残っています。木村はいつもになくまじめな、人をおしつけるような声 で、  「君はべツレへムで生まれた人類が救い主エス、クリストを信じないか。」  別に変わった文句ではありませんが、『べツレへム』という言葉に一種の力 がこもっていて、私の心にかつてないものを感じさせました。  会堂に着くと、入口の所へ毛布を丸めて投げ出して、木村の後ろについて内 に入ると、まず花やかな煌々としたランプの光が堂にみなぎっているのに気を 取られました。これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。 次にふわりとした暖かい空気が冷え切った顔にここちよく触れました。これは さかんにストーブがたいてあるからです。次に婦人席が目につきました。毛は 肩にたれて、まっ白な花をさした少女やそのほか、なんとなく気恥ずかしくっ てよくは見えませんでした、ただ一様に清らかで美しいと感じました。高い天 井、白い壁、その上ならず壇の上には時ならぬ草花、薔薇などがきれいな花瓶 にさしてありまして、そのせいですか、どうですか、軽い柔らかな、いいかお りが、おりおり暖かい空気に漂うて顔をなでるのです。うら若い青年、まだ人 の心の邪なことや世のさまのけわしい事など少しも知らず、身に翼のはえてい る気がして、思いのまま美しい事、高いこと、清いこと、そして夢のようなこ とばかり考えていた私には、どんなにこれらのことが、まず心を動かしたでし ょう。  木村が私を前の席に導こうとしましたが、私は頭を振って、黙って後ろのほ うの席に小さくなっていました。  牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものものしい重い、低い調 子でオルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と婦 人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、
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