掠文庫
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   一  銀座のカフェ××××で、同僚の杉田と一緒に昼食を済した雄吉は、そこを 出ると用事があって、上野方面へ行かねばならぬ杉田と別れて、自分一人勤め ている△町の雑誌社の方へ帰りかけた。  それは六月にはいって間もない一日であった。銀座の鋪道の行路樹には、軽 い微風がそよいでいたが、塵をたてるほど強いものではなく、行き交うている 会社員たちの洋服はたいてい白っぽい合着に替えられて、夏には適わしい派手 な色のネクタイが、その胸に手際よく結ばれていた。また擦れ違う外国の婦人 たちの初夏の服装の薄桃色や水色の上着の色が、快い新鮮を与えてくれた。  雄吉は食事を済した後ののんびりとした心持に浸っていた。その上、彼はこ の頃ようやく自分を見舞いかけている幸運を意識し、享楽していた。長い間認 められなかった彼の創作が、ようやく文壇の一角から採り入れられて、今まで はあまり見込みの立たなかった彼の前途が、明るい一筋の光明によって照され 始めていた。彼の心にはある一種の得意と、希望とが混じりながら存在してい た。ことに、彼は自分の暗かった青年時代を回想すると、謙遜な心で今の幸運 を享受することができた。  彼は、ともかくも晴れやかな浮揚的な心持で、歩き馴れた鋪道の上を歩いて いた。彼の心には、今のところなんの不安もなければ憂慮も存在していなかっ た。まったく安易な、のうのうとした心安さであった。他人が見たら、彼は少 し肩をそびやかしていたかも知れぬほどの得意ささえ、彼の心のうちに混じっ ていた。彼が、銀座で有名な△△時計店の前まで来た時であった。彼は、ふと 自分の方へ動いてくる群衆の流れのうちに、ある一つの顔を見出した。見覚え のある顔だと、彼は思った。それはほんの一瞬時だった。青木だ! と気がつ くと、彼の脚はぴったりと鋪道の上に釘付けにされたように止まってしまった。 が、釘付けにされたものは、彼の脚ばかりではなかった。彼のすべての感情が、 その瞬間動作を止めて心のうちで化石してしまったように思えた。彼のその時 まで、のんびりとしていた心持が、膠のように、急に硬着してしまった。彼の 心全体が、その扉をことごとく閉じて、武装してしまったという方が、いちば んこの時の心持を、いい現しているかも知れなかった。雄吉は、身体にも心に も、すっかり戦闘準備を整えて、青木の近よるのを待った。  初めて青木を発見したのは、ほんの二、三間前であったのだから、青木が雄 吉に近よるのは、二、三秒もかからなかった。雄吉の心持にも劣らないほどの 大きな激動が、青木の心のうちにも、存在しないはずはなかった。その上、青 木は雄吉のほとんど仇敵に対するような、すさまじい目の光を見ると、心持瞳 を伏せたまま近よった。  二人は目を見合わした。雄吉の目は相手に対する激しい道徳的叱責と、ある 種の恐怖に燃えていた。青木の目は、それに対して反抗に輝きながら、しかも 不思議に屈従と憐憫を乞うような色を混じえていた。二人はそれでも頭を下げ 合うた。 「やあ!」雄吉は、硬ばったような声を出した。 「やあ!」青木は、しわがれて震える声を出した。雄吉は、さっきから青木に 対して、どんな態度を取るべきかを、必死に考えていた。青木の出京! それ は彼にとって、夢にも予期しないことだった。しかも、その青木と不用意に、 銀座通りで出会すなどということは、彼の予想すべき最後のことであった。彼 は狼狽してはならないと思った。彼は過去において、青木と交渉したことによ って、自分の人生を棒に振ってしまうほどの、打撃を受けていた。その打撃を 受けてから六年の間に、彼は、そのためにどれほど苦しみどれほど不快な思い をしたか、分からなかった。が、その苦痛と不快とに堪えたために、彼は今で はその打撃をことごとく補うことができた。今では、青木との交渉によって負 うた手傷を、ことごとく癒すことができたと思っている。しかし、今でも、過 去における苦痛と不快との記憶は、ともすれば彼の心に蘇って、彼の幸福な心 持を掻きみだしていった。そして、その打撃から、起因するすべての苦しみを 苦しみ、すべての不快を味わうごとに、彼は青木を憎みかつ恨んだ。そして、 今ようやくそれらの打撃から立ち直って、やや光明のある前途が拓かれようと する時に、昔の青木が、五、六年も見たことのない青木が、彼の平静な安易な 生活を脅すごとく、彼の前に出現したのである。  彼は、相対した敵の軍隊同士が偵察戦を試みるようにきいた。 「いつ来たんだ!」 「もう一週間ばかり前に来た」と、青木は答えた。その力強い声が、昔の青木
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