掠文庫
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そっくりである。彼は過去において、その力強い魅力のある青木の声に、幾度 威圧されたか知れなかった。しかも、今自分はかなり得意な、自信のある位置 にたち、青木は、数年前失脚したまま、田舎に埋れていたはずだのに、その青 木の声から、ある種の威圧を受けるのが不快だった。彼はその威圧を意識する と、全身の力をもって反発せねばならぬと思った。 「何をしに、上京したのだ? 一体君は!」と、彼はきいた。それはある意味 の宣戦布告に近かった。彼は、青木が上京して、そのまま滞在するようになる のを、何よりも怖れていた。非常識に大胆で、人を人とも思わないような性情 と、ある種の道徳感に欠陥のある青木は、雄吉に対して、またどんなことをや り出すかも、分からなかった。しかも、雄吉は青木の不思議な人格に対して、 ある魅力と恐怖とを同時に感じさせられていた。昔の通りの青木が、その持ち 前の図々しさで、自分の生活を掻きみだし始めたら堪らないと思った。 「何をしに、上京したのだ?」と、きいておいて、もし青木の返事が、彼の東 京に永住することを意味していたら、雄吉は、即座に、「僕は、君とは生涯な んの交渉も、持ちたくない」と、断言する意志であった。 「何をしに、上京したのだ?」という言葉は、それだけでは、普通なありふれ た挨拶を、少しく粗野にいい放ったに過ぎなかった。しかし、雄吉がその言葉 にこめた感情は、青木に対する全身的な恨みと憎悪とであった。雄吉は、後で その瞬間に、自分の目がどんな悪相を帯びていたかを、思い出すさえ不快であ った。まして、その目を真向に見た青木が、名状すべからざる表情をしたのも 無理はなかった。その顔は、憤怒と恥辱と悲しみとが、先を争って表面に出て こようとするような顔付であった。それはすさまじいといってもいいほどの恐 ろしい顔だった。  彼は生涯に、この時の青木の顔に似た顔をただ一つだけ記憶している。それ は、彼が、脚気を患って品川の佐々木という病院に通っていた頃のことであっ た。彼はある日、多くの患者と一緒に控室に待ち合わしていると、四十ばかり のでっぷりと肥った男に連れられてやって来た十八ばかりの女がいた。雄吉は その男女の組合せが変なので、最初から好奇心を持っていた。すると、そこへ 医員らしい男が現れた。その医員はその四十男と、かねてからの知合いであっ たと見え、その男に「どうしたのです。どこか悪いのですか」と、きいた。す ると、その男はまるきり事務の話をするように、ちょっと連れの女を振り返り ながら、「いやこれが娼妓になりますので、健康診断を願いたいのです」と、 いった。それはその男にとっては、幾度もいいなれた言葉かも知れなかった。 が、娼妓になるための健康診断を受けることを、多くの患者や医員や看護婦た ちの前で披露されたその女――おそらく処女らしい――その女の顔はどんな暴 慢な心を持った人間でも、二度と正視することに堪えないほどのものであった。  女は心持ち顔を赤らめた。その二つの目は、血走って爛々と燃えていた。そ れは、人の心の奥まで、突き通さねば止まない目付であった。雄吉は、その目 付を今でも忘れていない。それは恥じ、怒り、悲しんでいる人間の心が、こと ごとく二つの瞳から、はみ出しているような目付であった。もう、それは三、 四年も前のことであった。が、今でも意識して瞳を閉じると、その女の顔が、 彼の親の顔よりも、昔失った恋人の顔よりも、いかなる旧友の顔よりも、明確 に彼の記憶のうちに蘇ってきた。  しかるに、今青木の青白い顔の上部に爛々として輝いている目は、この娼妓 志願者のその時の目とあらゆる相似を持っていた。彼は青木を恐怖し憎悪した。 が、その深刻な、激しい人間的苦悩の現れている瞳を見ると、彼はその心の底 まで、その瞳に貫き通されずにはいなかった。しかもその青木はつい六、七年 前まで、彼の畏友であり無二の親友であった。雄吉は、その瞳を見ると、今ま での心の構えがたじたじとなって、彼は思わず何かしら、感激の言葉を発しよ うとした。が、彼の理性、それは、彼の過去六年間の苦難の生活のために鍛え られた彼の理性が、彼の感情の盲動的感激をぐっと制止してくれた。彼の理性 はいった。「貴様は青木に対する盲動的感激のために、一度半生を棒に振りか けたのを忘れたのか。強くあれ! どんなことがあっても妥協するな」彼は、 やっとその言葉によって踏みとどまった。「僕は、一週間ばかり前に上京した のだが」と、青木はいった。彼の目付とはやや違って、震えを帯びた哀願的な 声であった。が、雄吉は思った。青木のこんな声色は、もう幾度でもききあき ている。今更こんな手に乗るものかと思った。が、青木はまた言葉を継いだ。 「実は明日の四時の汽車で帰るのだ。今度僕は北海道の方へ行くことになって ね。今日実は君に会おうと思って、雑誌社の方へ行ったのだが……」と、いい かけて、彼は悄然として言葉を濁した。雄吉は明らかに青木が彼の憐憫を乞う
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