掠文庫
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ているのを感じた。雄吉と同じく、極度に都会賛美者であった青木が、四、五 年振りに上京した東京を、どんなに愛惜しているかを、雄吉はしみじみ感ずる ことができた。が、一人も友達のなくなった彼は、深い憎悪を懐かれていると は知りながらも、なお昔親しく交わった雄吉を訪うて、カフェで一杯のコーヒ ーをでも、一緒に飲みたかったのであろう。雄吉は、青木のそうした謙遜な、 卑下した望みに対して、好意を感ぜずにはおられなかった。が、そうした好意 は、雄吉の心のうちに現れた体裁のよい感情であった。雄吉の心の底には、も っと利己的な感情が、厳として存在した。「明日の四時に帰る。しかも北海道 へ」と、きいた時、彼は青木の脅威から、すっかり免れたのを感じた。明日の 午後四時、今は午後二時頃だからわずかに二十六時間だ。その間だけ、十分に 青木を警戒することは、なんでもないことだ。今ここで、手荒い言葉をいって 別れるより、ただ二十六時間だけ、彼の相手をしてやればいいのだと思った。 否、あるいはその一部分の六時間か七時間か、相手をしてやればいいのだと思 った。 「じゃ、ここで立ち話もできないから、ついそこのカフェ××××へでも行こ う」と、雄吉は意識して穏やかにいった。が、初めてそうした世間並の挨拶を したことが、まったく利己的な安心から出ていることを思うと、少なからず気 が咎めた。  雄吉が、先に立って、カフェ××××へ入っていくと、そこにいた二、三人 の給仕女は、皆クスッと笑った。今出て行ったばかりの雄吉が、五分と経たぬ うちに、帰ってきたからである。しかし雄吉はそれに対して、にこりと笑い返 すことはできなかった。彼の心は大いなる脅威から逃れていたとはいえ、まだ 青木という不思議な人格の前において、ある種々の不安と軽い恐怖とを、感ぜ ずにはおられなかった。    二  過去において、青木は雄吉にとって畏友であり、親友であり、同時に雄吉の 身を滅ぼそうとする悪友であった。  雄吉は、初めて青木を知った頃の、彼に対する異常な尊敬を、思い出すこと ができた。彼の白皙な額とその澄み切った目とは、青木を見る誰人にも天才的 な感銘を与えずにはいなかった。彼の態度は、極度に高慢であった。が、クラ スの何人もが、意識的に彼の高慢を許していた。青木は傲然として、知識的に クラス全体を睥睨していたのだ。雄吉が、初めて青木の威圧を感じたのは、高 等学校に入学した一年の初めで、なんでも哲学志望の者のみに、課せられる数 学の時であった。数学では学校中で、いちばん造詣が深いといわれている杉本 教授が、公算論を講義した時であった。中学にいた頃には首席を占めたことの ある雄吉にも、そのききなれない公算論の講義には、すっかり参ってしまった。 すると、雄吉のついそばに座っていた青木――その時、すでに彼の名前を知っ ていたのか、それともその事実があったために、名前を覚えたのか、今の雄吉 には分からない――ともかく、青木がすっくと立ち上ったかと思うと、明晰な 湿りのある声で、なんだか質問をした。それは、雄吉にはなんのことだか、ち っとも分からなかったが、あくまで明快を極めた質問らしかった。それをきい ていた杉本教授は、わが意を得たりとばかり、会心の微笑をもらしながら、青 木の疑問を肯定して、それに明快な答えを与えたらしい。すると今度はまた、 青木がにっこり微笑して頷いて見せた。頭のいい先生と、頭のいい青木との間 には、霊犀相通ずるといったような微妙なる了解があった。クラス全体は、ま ったく地上に取り残されていて、ただ青木だけが、杉本教授と同じ空間まで昇 っていったような奇跡的な感銘を、雄吉たちに与えずにはいなかった。ことに その頃は、ロマンチックで、極度に天才崇拝の分子を持っていた雄吉は、一も 二もなく青木に傾倒してしまった。杉本教授が生徒としての青木を尊重する度 合と正比例して、雄吉の青木に対する尊敬も、深くなっていった。  その上、青木の行動は極度にロマンチックで、天才的であった。雄吉は、あ る晩十一時頃に、寄宿舎へ帰ろうとして、大きな闇を湛えている運動場の縁を 辿っていると、ふと自分と擦れ違いざまに、闇の中へ吸い込まれるように運動 場の方へ急いでいる青年があった。その蒼白い横顔を見た時に、雄吉はすぐそ れが青木であることを知った。 「青木君! どこへ」と、雄吉は思わず声をかけた。月夜でもない晩に、夜更 けて運動場の闇の中へと歩を運ぶ青木の心が、その時の雄吉には、ちょっと分
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