掠文庫
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からなかったからだ。 「ちょっと散歩するのだ」といいながら、雄吉の存在などには、少しも注意を 払わずに、痩せぎすな肩をそびやかせて、何かしら瞑想に耽るために、闇の中 に消えていく青年哲学者――雄吉はその時、そんな言葉を必ず心のうちに思い 浮べたに違いない――の姿を、雄吉はどれほど淑慕の心をもって見送ったか分 からない。  またその頃の青木は、教室の出入りに、きっと教科書以外の分厚な原書を持 っていた。雄吉などが、その頃、初めて名を覚えたショーペンハウエルだとか スピノザなどの著作や、それに関する研究書などを、ほとんどその右の手から 離したことがなかった。しかも、それを十分の休憩時間などに、拾い読みしな がら、ところどころへ青い鉛筆で下線を引いていた。  そうした青木の、天才的な知識的な行動――それを雄吉は後になってからは 衒気の伴ったかなり嫌味なものと思ったが、その当時はまったくそれに魅惑さ れて、天才青木に対する淑慕を、いやが上に募らせてしまった。むろん、彼は 意識して懸命に青木に近づいていった。彼の友人というよりも、彼の絶対的な 崇拝者として、彼の従順なる忠僕としてであった。  青木と雄吉との交情が、何事もなく一年ばかり続いた頃であった。そこに、 雄吉に対する大なる災難――それは青木に対してもやはり災難に相違なかった ――が、萌芽し始めていた。  それは、たしか雄吉らが、高等学校の三年の二学期のことだったろう。赤煉 瓦の古ぼけた教室の近くにある一株の橄欖が、小さい真っ赤な実を結んでいる 頃であった。二、三日前から蒼白な顔を、いよいよ蒼白にして、雄吉が話しか けても、鼻であしらっていた青木が、とうとう堪らなくなったように、教室の 壁に身を投げかけるようにしながら、 「さあ! いよいよ田舎へ帰るんだぞ!」と、吐き出すように叫んだ。それは、 雄吉にとっては、まったく意外なことであった。雄吉は、自分の君主の身の上 にでも、災難が襲いかかってきたかのように、狼狽しながら、 「君が国へ帰る? どうしてだ?」と、きいた。 「どうもしないさ。俺の親父が破産したというだけさ」と、青木は沈痛な、し かも冷静な調子でいった。  青木の家は、雄吉の知る限りでは、田舎のかなりの資産を持った商人らしか った。青木が、クラスの中で最も多く原書を買い込む事実からいっても、彼が その時まで給与されていた学資は、かなり豊富であったらしかった。 「じゃ、学資が来なくなったわけなんだね」と、雄吉は、この場合にもっと適 当した言葉がほかにあると思いながら、とうとうこんな平凡なことをいってし まった。青木は、雄吉の質問をいかにもくだらないといったように、 「まあ! そんなわけさ」と、いったまま黙ってしまった。  センチメンタルで、ロマンチックで、感激家であった雄吉が、突然青木の身 の上に振りかかった危難を知って、極度に感激したのは、むろんのことであっ た。彼は、どんなことがあっても、青木を救ってやらねばならぬと思った。雄 吉にとって、青木を救う唯一の手段は、やっぱり、今自分が世話になっている 近藤家の金力に、すがるよりほかはなかった。雄吉は、そう考えると、その日 学校から帰ると、自分が家庭教師兼書生といったような役回りをしている近藤 家の主人に、涙を流さんばかりに青木の救済を頼んだ。 「本当に、その男は天才なんです、教授連が、すっかり舌を巻いているのです。 後来きっと日本の学界に独歩するほどの大哲学者になりそうです」と、自分の いっていることに、十分確信を持ちながら、青木の効能を長々と述べたてた。 すると、主人の近藤氏は、実業家に特有な広量な態度で、 「俺は、哲学ということは、どんな学問だか、一向心得んが、いずれ国家に有 用な学問に相違なかろうから、その方面の天才を保護するのも、決して無用の ことじゃなかろう、君がそうまでいうのなら、青木という人も、家へ来てもら って一向差支えがない」と、こういいながら、何か掘出し物の骨董をでも買う ような心持で、青木を世話することを引き受けてくれた。雄吉は、この時ほど、 近藤氏を偉く思ったことはなかった。  雄吉は、自分の手で青木を救い得たことを、どれほど欣んだか知れなかった。 雄吉は、その翌日その吉報をもたらして、いそいそとして登校した。その途中 でも、彼は、青木がその知らせに接して、どんなに欣ぶか、どんなに自分の親 切を感謝するだろうかと考えると、自分の心がわくわくと、鼓動するのを覚え た。  が、雄吉が、寄宿舎の窓にもたれて、霜柱の一面に立っている運動場を放心
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