掠文庫
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を――意識をもってはどうともできない悪癖を持っている人間の苦悩といった ものを、顔全体にみなぎらしていた。 「どうしよう広井君! (青木が雄吉に君を付けて呼んだのはこれが初めてだ った)どうか。俺を救ってくれ、俺は破産した自分の家名を興す重任を帯びて いるのだ。食うや食わずで逼塞している俺の両親は、俺の成業を首を長くして 待っているのだ。ここを追われると、俺のこの身体で食っていくことさえ覚束 ない。ああどうしよう、広井君! どうかして俺を救ってくれ、主人は君、告 発するとか、そんなことはいいはしまいね」  雄吉の心には、かくまでに参ってしまった青木に対する同情と、今まで自分 を見下していた青木が、手を合わさんばかりに哀願しているのを見ている一種 の快感とが、妙にこんがらがっていた。そして、その二つともが、彼が青木の 罪を負うという決心を固めるのに役だった。  彼は、主人の部屋を出た時と同じように得々とした心持で、 「実はね、主人の前は僕が責任を背負ってきたのだ。僕は君のために、この罪 を背負ってこの家を出ようと思うのだ。君を罪に落したところで、僕が、君を この家に紹介した責任は逃れないし、また僕が何も知らないで、小切手を引出 しに行ったということも、ちょっと弁解が立たないし、これが表沙汰にでもな るというのなら、別問題だが、この家を出さえすれば済むことだから、僕も即 座に決心してしまったんだ」  これをきいた時の、青木の顔が一時に生気を呈したのはむろんであった。が、 青木は、なるべくその生気を押し隠すように、涙を――それも嬉し涙であった かも知れぬと雄吉は後で考えた――ぽろぽろと流しながら、「そんなことを!  僕の罪を君に委せて、僕が晏然と澄ましておれるものか、僕はそれほど卑屈 な人間ではない。さあ一刻も猶予すべきでない、さあ主人のところへ行こう」  雄吉は、後年になってから、なぜその時青木と一緒に主人のところへ行かな かったかを悔いた。が、不思議な感激と陶酔とに心の底までを腐らされていた 雄吉は、威丈高になるばかりに、 「ばかなことをいっちゃ困る。君が、この家を出たら、どうなると思う。君は その弱い身体で、パンを求めるさえ大変じゃないか。まして、学校をどうする のだ。君は自分で、自分の天分を愛惜することを忘れちゃだめだぞ。僕はこの 家を出ても、どうにでもやってみせる」と、感激に溢れた言葉でいった。 「君がなんといっても、君に代ってもらっては僕の良心に済まない。どうか、 僕に自白させてくれ給え」と、青木は叫んだ、青木の言葉も、まんざら偽りだ とは思われないほど感激していた。 「が、どちらにしても今夜は遅い。主人は寝ているに違いない。それよりか、 君も僕も一晩ゆっくりと寝ながら考えよう」  青木も、それに異存はなかった。雄吉と青木とは、枕を並べながら、眠られ ない一夜を明した。  雄吉の決心は、夜が明けても、動いていなかった。が、主人に自白するとい った青木は、夜が明けると、そのことをけろりと忘れてしまったかのように、 ただ目にいっぱい涙を湛えながら「済まない済まない」と、口癖のようにいい 続けるだけでだった。  その日の午後に、雄吉は、わずかな身の回りのものを始末して、三年近く世 話になった近藤家を去った。  近藤家を去った雄吉は、自分の壮健な肉体に頼るほかに、なんらの知己も持 っていなかった。彼は、その翌日からすぐ激しい労働に従事した。もう卒業ま では、わずかに三カ月である。学校を出て大学に入れば、自活の道も容易に見 出されると思っていた。が、そうした苦しい奮闘のうちにも、彼は青木から得 る感謝と慰藉を、自分の苦闘の原動力としようとさえ思っていた。  が、そこに雄吉にとって食うべき最初の韮があった。青木は雄吉の予期とは 反対に、雄吉を敬遠し始めた。二人が会って話していると、そこに奇怪な分裂 が存在し始めたことを、雄吉は気がつかずにはおられなかった。青木のことを 雄吉は、いつの間にか青木! 青木! と呼び捨てにしている自分を見出した。 彼は青木に対して、命令的な威圧的な態度に出る自分を見出した。それは、今 までの青木と雄吉との位置の転倒であった。今まで、青木に踏みつけられてい た雄吉が、奇抜な決死的な手段によって、青木を征服して、上から踏みつけて いるようであった。傲岸で自意識の強い青木は、雄吉のこうした態度に、どれ だけ傷つけられたか分からなかったらしい。 「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに 文句はあるまいな」と、いったような意識が、青木に対する雄吉の態度の底に、
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