掠文庫
次へ index
[11]
   三  今、カフェXXXXの一隅の卓を隔てて、その青木は雄吉の眼前に座ってい る。雄吉の心のうちに、ダニのように食いついて離れない青木に対する悪感を、 青木は少しも知らないのかも知れないと、雄吉は思った。青木に対する昔の好 意が――自分の身を滅ぼすことをも辞さないほどの好意の破片でもが、雄吉の 心のうちに残っているとでも、青木は誤解しているのかも知れないと、雄吉は 思った。が、どう思っていてもいい、もうわずかに二十六時間だ。いやこの会 見をさえ、手際よく切り上げれば、後はすぐ、さっぱりするのだと雄吉は考え た。  が、雄吉の前に腰かけながら、黙って目を落している青木を見ていると、彼 は六年という長い間、田舎に埋れていた青木の生活を、考えずにはおられなか った。負惜しみが強く、アンビシャスであった青木が、同窓の人たちが大学を 出て、銘々に世の中に受け入れられていくのを見ながら、無味乾燥な田舎に、 その青春時代を腐らせていったもどかしさや、苦しさや、残念さを考えると、 雄吉は、自分自身の恨みを忘れて、青木のために悲しまずにはおられなかった。  が、彼にとっては、煉獄といってよいほどの、苦しい生活を嘗めていたのに もかかわらず、青木はほとんど変っていなかった。雄吉のそうした憫みを受け るべく青木の顔は、昔の若さをほとんど失っていなかった。ことに青木の着て いる合着は、雄吉の合着よりも新しくもあれば、上等の品でもあった。  雄吉には、青木のそうした無変化さが、少し物足りなかった。雄吉の悪魔的 な興味は、もう少し零落して、しなびきっている青木を見たかったのだ。  雄吉は、何か話題を見つけようと思った。が、昔の生活を回想することは、 青木にとっても、雄吉にとっても苦々しいことであったし、それかといって、 現在の二人の生活には、話題となるべきなんの共通点もなかった。 「君はちっとも変らないじゃないか」 「ああ変らないよ」と、青木は答えた。その声は、昔の青木と少しも変らない ように、雄吉にとっては威圧的に響いた。二人はまた黙ってしまった。雄吉は、 友達の噂でも話してみようと思った。が、クラスのうちの誰も、皆立派に成功 の道に辿りついていて、誰の噂をしても、青木に対して当てつけがましくきこ えないのはなかった。雄吉は、やっと岡本という男のことを思い出した。その 男は、大学を出るのも、一年遅れた上に、大学を出てからも、職業がなくてぶ らぶらしていた。この男の噂なら、青木を傷つけることはないと思った。 「君は、岡本の噂をきいたことがあるかい」と、雄吉がきくと、 「岡本! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」と、青木は突き放 すようにいった。「青木! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」 という方が、もっと自然らしく思われるその青木が、こうした昔のままの傲慢 さを持ち続けていることが、雄吉にはむしろ淋しかった。雄吉が、話題に困っ ている様子を見ると、青木は、 「どうだい、君や桑野は勉強しているかい。外国のものなんか、盛んに読んで いるだろうな」と、妙に皮肉に挑戦的にきいた。それは、昔の青木とほとんど 変っていなかった。そうした青木の攻撃的な言葉に、今でも妙な圧迫を感ずる のを雄吉は自分ながら不快に思った。青木と雄吉との間に起った交渉、それを 雄吉は胸に彫りつけているのに、青木はそれをけろりと忘れたように、雄吉に 対して、それに対するなんの遠慮も、払っていないらしかった。 「君の単行本はまだ出ないのかい」と、青木は雄吉がたじたじとすればするほ ど、揶揄とでもとればとれそうな質問を連発した。まだ三、四篇しか作品を発 表していない雄吉に、単行本が出せるわけはなかった。  雄吉は、向い合って話しておればおるほど、不思議な圧迫を感ぜずにはおら れなかった。  六年憎み続けてきた青木、今ではもう、彼の天分を尊敬したことさえ一つの 迷妄だと自分では思っている雄吉にとって、青木はなおある不思議な魅力と威 圧とを持っていた。久し振りに顔を見合わした当座こそ、恥かしさに面を挙げ 得なかったほどの青木が、紅茶を一杯すすっているうちに、いつの間にか、雄 吉の上手に出ているのを感じた。雄吉は、そのことがかなり不快であった。青 木が全然失敗の男であり、しかも雄吉に対しては、とても償いきれぬような不 義理を重ねていながら、いったん顔を見合わしていると、彼の人格的威圧が、 昔のように厳として存在しているのが、雄吉は堪らなかった。雄吉は、どうか してこの不快から逃れようと思った。が、青木と会ってから三十分にもならな いのだから、体よく別れを告げるわけにもいかなかった。 「どうだい! 君、桑野のところへ行ってみないかい」と、ようやく雄吉は一
次へ index