掠文庫
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ていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南京鼠 の匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。そしてそれはそのカ フェがその近所に多く住んでいる下等な西洋人のよく出入りするという噂を、 少し陰気に裏書きしていた。 「おい。百合ちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」  話し手の方の青年は馴染のウエイトレスをぶっきら棒な客から救ってやると いうような表情で、彼女の方を振り返った。そしてすぐ、 「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲望があるん です。それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕 のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局はそういったことに帰着 するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。いや、そ んなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」 「それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車にはよくそういったマニヤ の人が乗っているということですよ」 「そうですかね。そんな一つの病型があるんですかね。それは驚いた。……あ なたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。一度 でも」  その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。 「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識がある と思っていいでしょう」  その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼は また平気な顔になった。 「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんです よ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。でも実際よく瞞さ れる、あれには。あっはっはは……僕がいったいどんな状態でそれに耽ってい るか一度話してみましょうか。僕はながい間じいっと眼を放さずにその窓を見 ているのです。するとあんまり一生懸命になるもんだから足許が変に便りなく なって来る。ふらふらっとして実際崖から落っこちそうな気持になる。はっは。 それくらいになると僕はもう半分夢を見ているような気持です。すると変なこ とには、そんなとき僕の耳には崖路を歩いて来る人の足音がきまったようにし て来るんです。でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことに している。しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、そこでぴた りと止まってしまうんです。それが妄想というものでしょうね。僕にはその忍 び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。そして今にも襟 髪を掴むか、今にも崖から突き落とすか、そんな恐怖で息も止まりそうになっ ているんです。しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときは もうどうなってもいいというような気持ですね。また一方ではそれがたいてい は僕の気のせいだということは百も承知で、そんな度胸もきめるんです。しか しやっぱり百に一つもしやほんとうの人間ではないかという気がいつでもする。 変なものですね。あっはっはは」  話し手の男は自分の話に昂奮を持ちながらも、今度は自嘲的なそして悪魔的 といえるかも知れない挑んだ表情を眼に浮かべながら、相手の顔を見ていた。 「どうです。そんな話は。――僕は今はもう実際に人のベッドシーンを見ると いうことよりも、そんな自分の状態の方がずっと魅惑的になって来ているんで す。何故と言って、自分の見ている薄暗い窓のなかが、自分の思っているよう なものでは多分ないことが、僕にはもう薄うすわかっているんです。それでい て心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。そのときの心の状態 がなんとも言えない恍惚なんです。いったいそんなことがあるものですかね。 あっはっはは。どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか」 「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入って来ましたね」  そして聴き手の青年はまたビールを呼んだ。 「いや、佳境には入って来たというのはほんとうなんですよ。僕はだんだん佳 境には入って来たんだ。何故って、僕には最初窓がただなにかしらおもしろい ものであったに過ぎないんだ。それがだんだん人の秘密を見るという気持が意 識されて来た。そうでしょう。すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密 に興味を持ち出した。ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらし くなって来た。しかしそのときの恍惚状態そのものが、結局すべてであるとい うことがわかって来た。そうでしょう。いや、君、実際その恍惚状態がすべて なんですよ。あっはっはは。空の空なる恍惚万歳だ。この愉快な人生にプロジ ットしよう」
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