掠文庫
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 その青年にはだいぶ酔いが発して来ていた。そのプロジットに応じなかった 相手のコップへ荒々しく自分のコップを打ちつけて、彼は新しいコップを一気 に飲み乾した。  彼らがそんな話をしていたとき、扉をあけて二人の西洋人がは入って来た。 彼らはは入って来ると同時にウエイトレスの方へ色っぽい眼つきを送りながら 青年達の横のテーブルへ坐った。彼らの眼は一度でも青年達の方を見るのでも なければ、お互いに見交わすというのでもなく、絶えず笑顔を作って女の方へ 向いていた。 「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」  ウエイトレスの顔は彼らを迎える大仰な表情でにわかに生き生きし出した。 そしてきゃっきゃっと笑いながら何か喋り合っていたが、彼女の使う言葉はあ る自由さを持った西洋人の日本語で、それを彼女が喋るとき青年達を給仕して いたときとはまるでちがった変な魅力が生じた。 「僕は一度こんな小説を読んだことがある」  聴き手であった方の青年が、新しい客の持って来た空気から、話をまたもと へ戻した。 「それは、ある日本人が欧羅巴へ旅行に出かけるんです。英国、仏蘭西、独逸 とずいぶんながいごったごたした旅行を続けておしまいにウィーンへやって来 る。そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそ れからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺める んです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はし ばらくその夜景に眺め耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放さ れた窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊りが明るい燈火に照 らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立 ち騰っている。そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけな くその男がそこに見出したものはベッドの上にほしいままな裸体を投げ出して いる男女だったのです。白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立 ち騰っている煙は男がベッドで燻らしている葉巻の煙なんです。その男はその ときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、そして いま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たのだ――そういう気持 がしみじみと湧いたというのです」 「そして?」 「そして静かに窓をしめてまた自分のベッドへ帰って寝たというのですが―― これはずいぶんまえに読んだ小説だけれど、変に忘れられないところがあって 僕の記憶にひっかかっている」 「いいなあ西洋人は。僕はウィーンへ行きたくなった。あっはっは。それより 今から僕と一緒に崖の方まで行かないですか。ええ」  酔った青年はある熱心さで相手を誘っていた。しかし片方はただ笑うだけで その話には乗らなかった。    2  生島(これは酔っていた方の青年)はその夜晩く自分の間借りしている崖下 の家へ帰って来た。彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱 を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出すからであった。生島は その四十を過ぎた寡婦である「小母さん」となんの愛情もない身体の関係を続 けていた。子もなく夫にも死に別れたその女にはどことなく諦らめた静けさが あって、そんな関係が生じたあとでも別に前と変わらない冷淡さもしくは親切 さで彼を遇していた。生島には自分の愛情のなさを彼女に偽る必要など少しも なかった。彼が「小母さん」を呼んで寝床を共にする。そのあとで彼女はすぐ 自分の寝床へ帰ってゆくのである。生島はその当初自分らのそんな関係に淡々 とした安易を感じていた。ところが間もなく彼はだんだん堪らない嫌悪を感じ 出した。それは彼が安易を見出していると同じ原因が彼に反逆するのであった。 彼が彼女の膚に触れているとき、そこにはなんの感動もなく、いつもある白じ らしい気持が消えなかった。生理的な終結はあっても、空想の満足がなかった。 そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかって来た。そのうちに彼は晴れ ばれとした往来へ出ても、自分に萎びた古手拭のような匂いが沁みているよう な気がしてならなくなった。顔貌にもなんだかいやな線があらわれて来て、誰 の目にも彼の陥っている地獄が感づかれそうな不安が絶えずつきまとった。そ して女の諦めたような平気さが極端にいらいらした嫌悪を刺戟するのだった。
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