掠文庫
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賭弓に、わななくわななく久しうありて、はづしたる矢の、もて離れてことか たへ行きたる。  こんな話を聞いた。  たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。男は、この娘のために、飲 酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」と呟い て、うつむいた。うれしそうであった。「僕の意志の強さを信じて呉れるね?」 男の声も真剣であった。娘はだまって、こっくり首肯いた。信じた様子であっ た。  男の意志は強くなかった。その翌々日、すでに飲酒を為した。日暮れて、男 は蹌踉、たばこ屋の店さきに立った。 「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。真実わるい、と思っ ていた。娘は、笑っていた。 「こんどこそ、飲まないからね」 「なにさ」娘は、無心に笑っていた。 「かんにんして、ね」 「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」  男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」 「たんと、たんと、からかいなさい」 「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」  あらためて娘の瞳を凝視した。 「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの。飲むわけないわ。 ここではお芝居およしなさいね」  てんから疑って呉れなかった。  男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみ な人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり 述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。  また、こんな話も聞いた。  どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかったという。ひとけなき 夜の道。女は、息もたえだえの思いで、幾度となく胴をくねらせた。けれども、 大学生は、レインコオトのポケットに両手をつっこんだまま、さっさと歩いた。 女は、その大学生の怒った肩に、おのれの丸いやわらかな肩をこすりつけるよ うにしながら男の後を追った。  大学生は、頭がよかった。女の発情を察知していた。歩きながら囁いた。 「ね、この道をまっすぐに歩いていって、三つ目のポストのところでキスしよ う」  女は、からだを固くした。  一つ。女は、死にそうになった。  二つ。息ができなくなった。  三つ。大学生は、やはりどんどん歩いて行った。女は、そのあとを追って、 死ぬよりほかはないわ、と呟いて、わが身が雑巾のように思われたそうである。  女は、私の友人の画家が使っていたモデル女である。花の衣服をするっと脱 いだら、おまもり袋が首にぷらんとさがっていたっけ、とその友人の画家が苦 笑していた。  また、こんな話も聞いた。  その男は、甚だ身だしなみがよかった。鼻をかむのにさえ、両手の小指をつ んとそらして行った。洗練されている、と人もおのれも許していた。その男が、 或る微妙な罪名のもとに、牢へいれられた。牢へはいっても、身だしなみがよ かった。男は、左肺を少し悪くしていた。  検事は、男を、病気も重いことだし、不起訴にしてやってもいいと思ってい たらしい。男は、それを見抜いていた。一日、男を呼び出して、訊問した。検 事は、机の上の医師の診断書に眼を落しながら、 「君は、肺がわるいのだね?」  男は、突然、咳にむせかえった。こんこんこん、と三つはげしく咳をしたが、 これは、ほんとうの咳であった。けれども、それから更に、こん、こん、と二 つ弱い咳をしたが、それは、あきらかに嘘の咳であった。身だしなみのよい男 は、その咳をしすましてから、なよなよと首をあげた。
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