掠文庫
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 五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、 殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務――気圧を調べるとか、 風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作 るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情を そそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想を起す。旅だ――五月が自分 に教えるのである。  いろいろなことを憶出すのもこの月だ。  ある日のことであった。丁度自分の休暇に当ったので、事務の引続を当番の 同僚に頼むつもりで書いて置いた気圧の表を念の為に読んで見た。天気、晴。 気温、上昇。雲形、層、層積、巻層、巻積。よし。それで自分は小高い山の上 にある長野の測候所を出た。善光寺から七八町向うの質屋の壁は白く日をうけ た。庭の内も今は草木の盛な時で、柱に倚凭って眺めると、新緑の香に圧され るような心地がする。熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛 ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったの である。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心 細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い気分になった。半生の 間の歓しいや哀しいが胸の中に浮んで来た。あの長い漂泊の苦痛を考えると、 よく自分のようなものが斯うして今日まで生きながらえて来たと思われる位。 破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山 の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身 になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷なのである。  こう思い耽って居ると、誰か表の方で呼ぶような声がする。何の気なしに自 分は出て見た。  旅窶れのした書生体の男が自分の前に立った。片隅へ身を寄せて、上り框の ところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の 用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚 をたよりに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途 中で煩った為に限りある路銀を費い尽して了った。道は遠し懐中には一文も無 し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力し て呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。 「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」  と、その男は附加して言った。  この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目 付をしたその男の有様は、と見ると、体躯の割に頭の大きな、下顎の円く長い、 何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた 其|痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲し い追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と 同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨い歩いたこ とを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって 流れたことを思出した。 「まあ君、そこへ腰掛けたまえ。」  と、自分は馴々敷い調子で言った。男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔し て、ただもう悄然と震え乍ら立って居る。 「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、 斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないと いうことにして居る。だって君、左様じゃないか。僕だって働かずには生きて 居られないじゃないか。その汗を流して手に入れたものを、ただで他に上げる ということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を貰うという法はな かろう。」  こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、 「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っても左様だろうと思うんだ。ただ呉 れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、 そんな方法で旅が出来るものか。だからさ、それを僕が君に忠告してやる。何 か為て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何かね。」 「はい。」と、男は額に手を宛てた。 「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は 学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困ったこ とがある――そりゃあもう、辛い目に出遇ったことがある。丁度君が今日の境 遇を僕も通り越して来たものさ。さもなければ、君、誰がこんな忠告なぞする ものか、実際君の苦しい有様を見ると、僕は大に同情を寄せる。まあ僕は哭き
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