掠文庫
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がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさし たら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立っ たから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出 た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した。  その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいた ら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、よ うやくおやじの怒りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思 わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由 緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするよう になったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁 か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に 愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎 と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれ る性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは 何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考え た。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」と賞め る事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好い気性 なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事 を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそ れだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分 の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。  母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんな に可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の 毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を 買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか 寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。 ただ食い物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。 これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸 せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでし ょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是 非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口へ 入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。 仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清 は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端 でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水 で洗っていた。それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消え かかっていた。清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。ちょっと かいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げま すからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三 円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今と なっては十倍にして返してやりたくても返せない。  清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだ と云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよ くないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、お れ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄 したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これ は不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しか し清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元 は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりで はない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派な ものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とて も役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わない。 自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れる ものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。し かし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思って いた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだろ うと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ 手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。  それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どう か置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような
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