掠文庫
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りなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教 えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけない と聞いて、なお上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、お れの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔を していた。  停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のよ うな汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければなら ない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭って、 中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使 が教えた。随分気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、草 臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よ く山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだ からちょっと面白く思った。  何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。 こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いな がら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗 をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、す ぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。 失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱 つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女がどちらか らおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。すると東京はよい 所でございましょうと云ったから当り前だと答えてやった。膳を下げた下女が 台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。くだらないから、すぐ寝たが、な かなか寝られない。熱いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍ぐらいやかま しい。うとうとしたら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむし ゃ食っている。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬で ございますと云って旨そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開い てハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底 が突き抜けたような天気だ。  道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り 扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやら ないせいだろう。見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を 提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括ったな。一番茶代をやって驚かし てやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来 たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みん なやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだ から五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。どうするか見ろと済まして 顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆を持 って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭り でも通りゃしまいし。これでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。飯を済まし てからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、 あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それか ら飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。  学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分っている。四つ角を二三度 曲がったらすぐ門の前へ出た。門から玄関までは御影石で敷きつめてある。き のうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山な音がするので少 し弱った。途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢ったが、みんなこの門 をはいって行く。中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。あんな奴を 教えるのかと思ったら何だか気味が悪るくなった。名刺を出したら校長室へ通 した。校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。やにも ったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれと云って、恭しく大きな印の捺 った、辞令を渡した。この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込んでし まった。校長は今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辞令を見せる んだと云って聞かした。余計な手数だ。そんな面倒な事をするよりこの辞令を 三日間職員室へ張り付ける方がましだ。  教員が控所へ揃うには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。大分時間があ る。校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を 呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義 を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ 来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲な
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