掠文庫
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せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈し てやった。最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしていたから、それ見 ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中に 居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いなが ら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣っ て、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。 早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使 えない、分からなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子 で二時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっ とこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何の問題を 持って逼ったには冷汗を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教え てやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。その中に出来ん出来んと 云う声が聞える。箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを 出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十 円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだとまた山嵐が 聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生 徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐は妙な顔をしていた。  三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出 た級は、いずれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思っ た。授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ然として待ってな くてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にく るから検分をするんだそうだ。それから、出席簿を一応調べてようやくお暇が 出る。いくら月給で買われた身体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机 と睨めっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人 しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏ねるのもよろしくな いと思って我慢していた。帰りがけに、君何でもかんでも三時過まで学校にい させるのは愚だぜと山嵐に訴えたら、山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あと から真面目になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。云うなら僕だ けに話せ、随分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。四つ角で分れ たから詳しい事は聞くひまがなかった。  それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやっ て来る。お茶を入れると云うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮 なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょう を一人で履行しているかも知れない。亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、 とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申す ところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかが ですと、飛んでもない勧誘をやる。二年前ある人の使に帝国ホテルへ行った時 は錠前直しと間違えられた事がある。ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した 時は車屋から親方と云われた。その外今日まで見損われた事は随分あるが、ま だおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。大抵はな りや様子でも分る。風流人なんていうものは、画を見ても、頭巾を被るか短冊 を持ってるものだ。このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者じ ゃない。おれはそんな呑気な隠居のやるような事は嫌いだと云ったら、亭主は へへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、 いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付 をして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな 苦い濃い茶はいやだ。一杯飲むと胃に答えるような気がする。今度からもっと 苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲 んだ。人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。主人が引き下がってから、明日の下 読をしてすぐ寝てしまった。  それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人が お茶を入れましょうと出てくる。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは 飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。ほかの教師に聞いてみると辞 令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るい だろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。 教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に 消えてしまう。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない 男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭に どんな反応を呈するかまるで無頓着であった。おれは前に云う通りあまり度胸 の据った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。この学校が
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