掠文庫
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いけなければすぐどっかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐 しくはなかった。まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辞も使う気になれ なかった。学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。亭主が茶 を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。始めに持っ て来たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三円なら安い物だ お買いなさいと云う。田舎巡りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入ら ないと云ったら、今度は華山とか何とか云う男の花鳥の掛物をもって来た。自 分で床の間へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加 減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華 山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、 どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと催促をする。金 がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固だ。金 があつても買わないんだと、その時は追っ払っちまった。その次には鬼瓦ぐら いな大硯を担ぎ込んだ。これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるか ら、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓には上 層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層で す、この眼をご覧なさい。眼が三つあるのは珍らしい。溌墨の具合も至極よろ しい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞 くと、持主が支那から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安く して三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿に相違ない。学校の方は どうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそ うにない。  そのうち学校もいやになった。  ある日の晩大町と云う所を散歩していた ら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは 蕎麦が大好きである。東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをか ぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘 れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯 食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と断わる 以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、 滅法きたない。畳は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。壁は煤で真黒 だ。天井はランプの油烟で燻ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるく らいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新し い。何でも古いうちを買って二三日前から開業したに違いなかろう。ねだん付 の第一号に天麩羅とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。する とこの時まで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた 連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかっ たが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも 挨拶をした。その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯 平げた。  翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先 生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいか ら、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、しかし四杯 は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが 食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十 分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず。と黒板に かいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を 過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦のようなもので誰も賞め手はない。田舎者は この呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと云う了見だろう。 一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何にも芸がない から、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。 小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓み たような小人が出来るんだ。無邪気ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃな んだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。おれはだまって、天麩羅を消して、こ んないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、 と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答え た奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思っ たら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始 めてしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたく なるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、 そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。生徒は休み
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