掠文庫
次へ index
[10]
になって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。  天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪に障らなくなった。学 校へ出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかり は無事であったが、四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住 田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行 かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子 屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りが けにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと 思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いて ある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にも きっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等 だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭と云うのが評判になった。何 の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温 泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温 泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、 晩飯前に運動かたがた出掛る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴を ぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっ と見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもある いても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うん だそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三 階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目 へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎 日上等へはいるのは贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺は 花崗石を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人 漬ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、 運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済 しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よ く下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の 中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりある まいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそ れから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り 黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全体がお れ一人を探偵しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、 やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先 がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相 変らず骨董責である。  学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但し狸と赤シャツ は例外である。何でこの両人が当然の義務を免かれるのかと聞いてみたら、奏 任待遇だからと云う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、そ れで宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、そ れが当り前だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来 るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人 で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人だって正しい事 なら通りそうなものだ。山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加 えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だ そうだ。強者の権利ぐらいなら昔から知っている。今さら山嵐から講釈をきか なくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤シャツが強者だなん て、誰が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻 って来た。一体疳性だから夜具蒲団などは自分のものへ楽に寝ないと寝たよう な心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊った事はほとんどないくら いだ。友達のうちでさえ厭なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、こ れが四十円のうちへ籠っているなら仕方がない。我慢して勤めてやろう。  教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分間が抜 けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっ とはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。田舎 だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。生徒の賄を取りよせて晩飯を済ま したが、まずいには恐れ入った。よくあんなものを食って、あれだけに暴れら れたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑に違い ない。飯は食ったが、まだ日が暮れないから寝る訳に行かない。ちょっと温泉 に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪るい事だかしら
次へ index