掠文庫
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たが、誰も面を洗いに行かない。  おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答をしていると、ひょっく り狸がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わ ざわざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地 がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。  校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草もちょっと聞いた。追って 処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと 時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免した。手温る い事だ。おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな悠長な事 をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向って、あなたもさ ぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばんと云うから、おれはこう答 えた。「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命の ある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業 が出来ないくらいなら、頂戴した月給を学校の方へ割戻します」校長は何と思 ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていま すよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒い。 蚊がよっぽと刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら 膨れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。 校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞めたんじゃあるま い、ひやかしたんだろう。  君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪るい ように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男 らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれく らいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。  おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事があります かと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣っ た事がある。それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけ て、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜し いと云ったら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑った。何もそ う気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分 らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれが ご伝授をうけるものか。一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。 不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるよ り生きてる方が楽に極まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格 別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなん て贅沢な話だ。こう思ったが向うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶 わないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違いして、 早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川 君と二人ぎりじゃ、淋しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というの は画学の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういう了見だか、赤シャ ツのうちへ朝夕出入して、どこへでも随行して行く。まるで同輩じゃない。主 従みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極っているんだから、 今さら驚ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想のおれへ 口を掛けたんだろう。大方高慢ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見 せびらかすつもりかなんかで誘ったに違いない。そんな事で見せびらかされる おれじゃない。鮪の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって 人間だ、いくら下手だって糸さえ卸しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行 かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かな いんじゃないと邪推するに相違ない。おれはこう考えたから、行きましょうと 答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度を整えて、停車 場で赤シャツと野だを待ち合せて浜へ行った。船頭は一人で、船は細長い東京 辺では見た事もない恰好である。さっきから船中見渡すが釣竿が一本も見えな い。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖 釣には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫でて黒人じみた事を云った。こ う遣り込められるくらいならだまっていればよかった。  船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜 が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して 針のように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない 島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこ ない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげ
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