掠文庫
次へ index
[15]
すと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろび ろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あ の松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそう だね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの 曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。タ ーナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。 舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。これで海だとは受け取りに くいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上 へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんです かと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃい けないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがど うです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余 計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛 成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたく さんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画 が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤 シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、ちょ っとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だか やな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事で ないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないか ら聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は 私も江戸っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴 染の芸者の渾名か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の 下に立たして眺めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会 へ出したらよかろう。  ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤 シャツが聞くと、六尋ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、 赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆なものだ。野 だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云 いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘のような鉛がぶら 下がってるだけだ。浮がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度を はかるようなものだ。おれには到底出来ないと見ていると、さあ君もやりたま え糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、 浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人ですよ。こうしてね、糸が水底へついた 時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。 ――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何 にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。いい気味だ。教頭、残念な事を しましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお 手際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何 ですね。浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがな くっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。 よっぽど撲りつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り 切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹の一匹ぐらい義理にだって、かかって くれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいい加減に指の先であやつって いた。  しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。 こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。 しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべし だと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、 水に浸いておらん。船縁から覗いてみたら、金魚のような縞のある魚が糸にく っついて、右左へ漾いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際か ら上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。よう やくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。捕まえた手はぬるぬ るする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつけたら、 すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手 をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭い。もう懲り懲りだ。 何が釣れたって魚は握りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲 いてしまった。  一番槍はお手柄だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云 うと露西亜の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、まる
次へ index