掠文庫
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ャツが聞くから、ええ寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻 烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の 上を揺られながら漾っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、 奮発してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故もない事を云い出した。 「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでい るんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」と野だはに やにやと笑った。こいつの云う事は一々癪に障るから妙だ。「しかし君注意し ないと、険呑ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険 呑は覚悟です」と云ってやった。実際おれは免職になるか、寄宿生をことごと くあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつ きどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わ るく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずな がら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互に力になろう と思って、これでも蔭ながら尽力しているんですよ」と野だが人間並の事を云 った。野だのお世話になるくらいなら首を縊って死んじまわあ。 「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろ な事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢だと思って、 辛防してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」 「いろいろの事情た、どんな事情です」 「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないで も自然と分って来るです、ね吉川君」 「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかし だんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャ ツと同じような事を云う。 「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出し たから伺うんです」 「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任です ね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ 学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というもの はなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊には行かないですからね」 「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」 「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」 「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ 月ですから」 「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」 「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」 「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたん だから、気を付けないといけないと云うんです」  野だが大人しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方 で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。 「僕の前任者が、誰れに乗ぜられたんです」 「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠のな い事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだか ら、ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれた まえ」 「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしな けりゃ好いんでしょう」  赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えは ない。今日ただ今に至るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間 の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ 社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、 坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で 嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って 学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、 世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、 おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。 清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方 が赤シャツよりよっぽど上等だ。 「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、 人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中に
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