掠文庫
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は磊落なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかし てくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。 もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君ど うだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほど こりゃ奇絶ですね。時間があると写生するんだが、惜しいですね、このままに しておくのはと野だは大いにたたく。  港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗って いた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、 かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やっと掛声を して磯へ飛び下りた。  野だは大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本の ためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあん な優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。 惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だより むずかしい事を云う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっ とものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、 何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっ きり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪るい教師なら、早 く免職さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。蔭口 をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極まってる。 弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親 切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。 それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった 友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。大方田舎だから万事東京のさかに 行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。 しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一 番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵の事は出来るかも知れ ないが、――第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まえて喧 嘩を吹き懸けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ 、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうで もなる。向うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり 米が出来る訳でもあるまい。どこの果へ行ったって、のたれ死はしないつもり だ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。  ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、 氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まな かったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、 詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、 一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った 今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだ ろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そ うなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすれ ばするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ 事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思う からだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘 茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と 見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済む ところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位 無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より 尊といお礼と思わなければならない。  おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気 でいる。山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞を するとは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸し もない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。  おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。あくる日 は思う仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところ がなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが 出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に 寝ているだけで閑静なものだ。おれは、控所へはいるや否や返そうと思って、 うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握って来 た。おれは膏っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。汗をかい
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