掠文庫
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てる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふ うふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑でしたろ うと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。する と赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持っ て来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、 秘密にしてくれたまえ。まだ誰にも話しやしますまいねと云った。女のような 声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれ から話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだか ら、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。 山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎をかけておきながら、今 さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山 嵐と戦争をはじめて鎬を削ってる真中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。そ れでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。  おれは教頭に向って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつも りだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちゃ困る。 僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君が もしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動を起 すつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、当り前 です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょう と云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外 してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そん なにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫かいと赤シャツは 念を押した。どこまで女らしいんだか奥行がわからない。文学士なんて、みん なあんな連中ならつまらんものだ。辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして 恬然としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚りながら男だ。受け合った 事を裏へ廻って反古にするようなさもしい了見はもってるもんか。  ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰 って行った。赤シャツは歩るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、 音を立てないように靴の底をそっと落す。音を立てないであるくのが自慢にな るもんだとは、この時から始めて知った。泥棒の稽古じゃあるまいし、当り前 にするがいい。やがて始業の喇叭がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方 がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。  授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな 机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅 刻したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金を出 したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから 取っておけ。先達て通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云って るんだと笑いかけたが、おれが存外真面目でいるので、つまらない冗談をする なと銭をおれの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。 「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。 取らない法があるか」 「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、 今時分返すんだ」 「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」  山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、こ こで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合った んだから動きがとれない。人がこんなに真赤になってるのにふんという理窟が あるものか。 「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」 「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」 「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと云う から、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしか めるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」  おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。 「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極め たって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方 がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」 「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余まされているん だ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、 威張り過ぎるさ」
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